蓬莱屋さんでの顛末
上野御徒町、松坂屋の裏あたりに古いとんかつ屋さんで「蓬莱屋」さんというおみせがある。ここはいつから続いているかはよくわからない老舗である。
昭和の三十年代後半の話を母から聞いた。
母と祖母はよく買い物に出かけていた。渋谷なら東急、日本橋なら三越か白木屋、銀座なら松屋、上野なら松坂屋、それぞれにひいきのお店があったようなのだ。
上野松坂屋の帰りにランチを食べることになった。たまには贅沢してとんかつでも奮発するか、と蓬莱屋さんに行って、とんかつを堪能したそうである。(私も年に何回かお世話になっているがここのとんかつはとてもおいしい。丁寧にじっくり挙げられたジューシーなヒレカツは日本一だと思っている。)
お腹も満腹になり、大満足であったらしい。祖母はビールもひっかけていたらしく、珍しく饒舌であったそうな。お店を出る際には「とてもおいしくいただけました。こんなおいしいとんかつに出会えて幸せですよ。会計は今お手洗いに行っている娘が払うからお先に失礼させていただきますよ」
お手洗いから出てきた母も相当美味しいとんかつに当てられていたらしい。「生まれて初めてこんなにおいしいとんかつをいただきました。ごちそうさまでした」と言って店を出たそうである。
帰宅後、祖母は「しーちゃん、とんかつ御馳走様。いい値段だっただろ、お代は私払うよ、いくらだった」
母は「ほんとにおいしかったわ。お代は母さん払ってたんじゃないの」
沈黙があり、ほぼ同時に「しまった。お題を払わずにただ食いしちゃった。食い逃げだね。」
「払いに行こうか」
「やめときな。次の機会にうんと高いの頼んで、釣りはもらわないってのが礼儀ってものだよ。みっともないことはしなさんな。江戸っ子の名が廃るよ」
「そうねえ。来月また行こうよ、母さん。ちゃんとお支払いしないとね」
以来、蓬莱屋さんに行って景気よくご飯を食べて気風よくお金を払ったという話は生前の二人から聞いたことはない。
この話を思い出したのは就職してすぐのころ上京してからで(平成の初めのころ)、祖母は他界して久しくなっていたし、母は九州に転勤した父と一緒だったから、私は初ボーナスをもらってから蓬莱屋さんに行き、ヒレカツ定食をいただき、お会計の時にこの話をした。お店の方も大笑いして「あの頃は自己申告でお会計だったのかもしれませんね。今更昔のお代をいただくなんてできませんから、坊ちゃんがひいきにしてくださいませんか」と言われたのであった。以来、私は約束を守るようにしている。
新型コロナの流行、緊急事態宣言になってご無沙汰しているが、緊急事態宣言が明けたら約束を果たしに行こうと思う。