見出し画像

復讐するは我にあり 2

言論とコミュニケーションは、すみずみまで金銭で侵食されている。しかも、偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。

(ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出出版、2007年、352頁)


創造は、コミュニケーションとは異なる活動

フランスの哲学者、
ジル・ドゥルーズのこの一節が、
今の自分には骨から神経まで
染み入ってくる気がする。

この春に、広告代理店のクリエイティブとして、
まさにこんなドゥルーズの言葉を実感する。
そんな経験をした。

経験をした、というよりは、
実際に1年間ほどの時間をかけて、
ゆっくりと毒が身体中に回っていたようだった。

良いコミュニケーションを作ろうとやってきたが、
それが自分が追求しているクリエーションとは、
全く別物であることを、
恥ずかしながら知ることになった。

事情を知らない人からしたら、
何のことだろうと思われるだろうから、
こんな風に理解していただきたい。

10年間のクリエイターとしてのキャリアの末に、
自分のモチベーションの一切を失った人間がいる。

広告クリエイターとして、
良いコミュニケーションを作ろうと
思考して行動してきたつもりであった。

が、新しいコミュニケーションの模索は、
クリエイティブ(創造)と
コミュニケーション(広告)が
全くの別物であることを、僕に発見させた。

今の世代の広告クリエイターは、
色んな選択を迫られることになる。

世界を目指すのか、先進技術を駆使するのか、
カルチャーやイシューと仲良くなるのか、
はたまたあえての地域社会へ飛び込むのか。
ビジネスの理を理解して強さとするか、
知識を蓄えて経営者たちの横に座るか。

もちろん、1つだけではないが、
いくつかの選択とバランスを取って
キャリアを歩み、自分の能力と相談しながら
意思を持って歩いて行かなくてはいけない。

僕も様々な時期を振り返ってみると、
隣の芝生の青さに驚き、平均台を歩くように
グラグラとキャリアを歩みながら、
たまに嫉妬の沼に落ちて泥だらけになっていた。
だんだんと純粋な心は泥まみれになり、
未来を見据える目は霞んでいくのだ。

それでも何かになろうと必死だった。
広告クリエイターとして、
こんなことをやったら面白いのではないか。

自分とチームと会社のユニークさを引き出す。
…というより認めさせる!
くらいの気持ちでやっていた。

が、ある仕事がきっかけで、
その平均台を自分から降りることになった。

ちゃぽん!と沼に沈みながら、
汚れた水面を見上げて考えるのである。

「で、俺はこれからどうやって生きていこうか。」

嫉妬の沼に落ちた僕にとって、
広告クリエイターとしての習慣は地獄になった。

毎日のようにSNSを摂取して、
メディアを一通り舐めていく。

SNSには、今日も最高のクリエイティブがあがる

素晴らしい広告映像は毎年のように発表され、
自分でも思いつきそうな、でも絶対に思いつかない、
平易な言葉で表現された誰もが共感する、
でも誰も見つけられなかった言葉が、
広告コピーとして発表される。

企画というものを理解すればするほど、
上手なホームランを目の当たりするような
開いた口が塞がらないような、
綺麗な放物線を描く企画が、
きっと明日も発表されるだろう。

現代広告は、もはや広告だけではない。

そんなビジネスアイデアがあったか。
そんなワクワクするような
コラボレーションが生まれたのか。
あのブランドは、こんなにも売れていて、
実はあの人が仕掛けていたのか。
あれもこれもあの人か。
その人はそんな若さで、
この人はそんな経歴から。
Twitterで話題になっている。
どのメディアにも取り上げられている。
チャンネル登録が、フォロワー数が、再生数が…。

嫉妬の沼に自分が汚染されているのがわかる。
目に映る全てが、
自分のワークスに並べたかったように感じる。
当然のように、閃きやクリエイティブな柔軟性は
失われていく。

どうして俺はこんなで、あの人はあんなに。
あんな風なことがしたいな。
こんな風になったら楽しいだろうな。

好きなことでメシを食う、の先へ

嫉妬の沼は汚染されている。
汚染された自分からは死臭がする。
邪悪なぬめりが纏わりつき、
誰も触れ会いたいと思わない。

「あれ?俺は何がしたかったんだっけ?」

学生の頃や若手と呼ばれた時代は、
単純な問いと戦っていたように思う。

【好きなことを仕事にできるか。】
【好きなことで食べていけるか。】
【好きなことで出世できるか。】

30代に入り、
自分のこれからの生き方を考える時に、
そこにある問いは、
なかなかシンプルにはならない。

社会や業界のシステム、
どこに存在価値があるのか。
そんなシステム(管理)を理解したら、
自分が求められていることがわかる。

なにをすればいいかわかるから、
仕事にはなっている。

もちろん好きなことを
多少、広義に解釈して、
好きなことを広げることで、
自分が求められていることと、
自分が好きと呼んでいたものの、
整合を調整はしている。
自らの気持ちをおさめられる程度の
言い訳を使ってはいる。

一応は【好きなことを仕事に出来ている】のだろう。

もちろん、驚くほどの金額を
稼いでいるわけではないが、
食べていけないか、と言えば嘘になると思う。
ただ、それだけで自分の自尊心は満たされない。

ゴルフで100を切れる人は
全体の●%…みたいな話と同じで、
ゴルフ人口を全て入れたら
そうなのかもしれないが、
実際にゴルフ場に行けば、
自分より上手い人はゴロゴロいて、
100を切ったからといって、
満足を得られるわけではない。

むしろ、上手い人ほど、ゴルフというスポーツに
ストレスを感じているようにさえ感じる。
収入や評価なんかも同じではないだろうか。
いつだって、気持ちとしては割に合わない。
が、一応これで食っている。

【好きな仕事で食べていけている。】

この場合の仕事は、
今の自分にとっての仕事ではなく、
1つ前の文章で、好きなことを
仕事にできたという定義から来るから、
【仕事=好きなこと】とした場合である。

なので、正確に言えば、
学生の時に好きと呼んでいたもの(の一部)で、
食べている。

【好きな仕事で食べていけている。】というより、
【学生の時に好きと呼んでいたもの(の一部)で、食べている。】だし、
【学生の時に好きと呼んでいたもの】は【ものづくり】である。
【創造】であり、【想像したもの創造するためのものづくり】であり、
厳密には、創造だけでは食べていけない。
お金にはならない。

つまり、なるべく正確に言うのであれば、
この学生時代に好きと呼んでいたものを、
コミュニケーションもしくは
広告の仕組み(システム)のはめることで、
金銭を受け取り、生活を成立さえている
…だけっちゃだけである。

創造は、コミュニケーションとは異なる活動

わかっていたことだが、この年齢と立場になって、
その事実をより一層、実感する。
納得もするし、説得力もあると思う。
(立場とは一応、好きなことで食べていけている状態。)
すると、学生の時のシンプルな問いは、
一部崩壊し始める。

【好きなことで出世できるか。】

出世ということは、如何にして
その仕組み(システム)にハマるかどうか。
そのハマり具合を言っている訳である。
つまりは【学生の時に好きと呼んでいたもの】から
完全に離れ、第三者による評価に対しての
自分の動きが問われる段階。

ここで迷いが生じる。なるべく永く、というよりは
常に【好きなこと】を行っていたかったと考えていた(はず)。

好きなことは、
実際には【ものを作ること】になるのだが、
今、自分が感じている感覚をそのまま説明するには
【ものづくり】はわかりにくいので、
ちょっと例え話をさせてもらいたい。

例えば…人間がなにも食べなくても、
老衰で死ねる生き物だったとして。

それでも、俺は学生の頃から食べることが
大好きだったとして。
学生の俺は考えた。
そうだ!食べることを仕事にすればいいんだ。

そして、(実際にはないかもしれないが)
試食家みたいな仕事に、無事に就職したとする。

人間みんなが
食べることをしているわけではない世界だから、
食品業界のクライアントの作っている
食べ物を試食して、それが美味しいか、不味いか。
もしくは人々にウケるかウケないかを、
判断する仕事だ。
就職したのは、そんな仕事だとして。

もしくは、なにがウケるかを
食のプロとして考えて、
自分たちで美味しいとされる食品をつくる。
そのディレクションを行う仕事に
発展するかもしれない。

この場合、人間は食べなくても生きていけるので、
食事は嗜好や趣味みたいな位置付けだろう。

この仕事は、食べることで世の中から評価され、
給料を与えられ、家族や友人と話しても、
ある程度は評価される、満足のいく仕事だとして。

学生の時からやりたかった食べることで、
生きていけていると実感したキャリア10年目。

彼は思うだろう。
でも、本当に食べたかったものは、
これだったんだっけ?食べられたら、
なんでもいいんだっけ?

世の中に受けているからって、
こんなジャンキーなものや、
味の薄い流行のオーガニックな食べ物を、
食べたかったんだっけ?

そして、だんだんと怖くなってくる。
正確にすっぱいや甘い、辛いなどが
判断できるようにはなったが、
自分が好きな味や食べたい味が
わからなくなってくるのだ。

簡単にいうと僕のものづくりには、
そんなことが起こっている。

俺は俺が食べたいものを食べて、死にたい。

素晴らしい広告映像は毎年のように発表され、
自分でも思いつきそうなでも絶対に思いつかない、
平易な言葉で表現された誰もが共感する、
でも誰も見つけられなかった言葉が、
広告コピーとして発表される。

企画というものを理解すればするほど、
上手なホームランを目の当たりするような
開いた口が塞がらないような、
綺麗な放物線を描く企画がきっと
明日も発表される。

現代の広告は、もはや広告だけにあらず。
そんなビジネスアイデアがあったか。
そんなワクワクするような
コラボレーションが生まれたのか。
あのブランドは、こんなにも売れていて、
実はあの人が仕掛けていたのか。
あれもこれもあの人か。
その人はそんな若さで、
この人はそんな経歴から。
Twitterで話題になっている。
どのメディアにも取り上げられている。
チャンネル登録が、フォロワー数が、再生数が…。

嫉妬、嫉妬、嫉妬、嫉妬、
shit、shit、クソ、クソ、クソ。
俺はクソだ、どうしようもないクソ野郎。

「好きなことで出世できるか。」
さっき自分で結論したように、ハマるかどうか。
技術や経験、時には運も味方につけて
いるかもしれない。

こんな解釈や言い方も嫉妬。自分がクソなだけ。

上手に一生懸命にやっている人に対して、
嫉妬しているだけだった。

でも、それが自分の好きなことが
侵される理由にはならない。
残念ながら、自分が好きなことを
やめる言い訳にはならない。

人生の目的は好きな味を好きなように
食べることであり、
好きなことを好きなようにやることであり、
自分の好きなものづくりを追求することだと
気づいた。

開き直ったら、中途半端な自分が心地よい

そう考えると、自分のこの中途半端な状態が、
心地よい気がしてきた。
職業としては、現状成り立ってはいる。
ある程度、求められることはわかっているし、
それなりに食べられている。

では、次にするべきことは何か。
それは解像度を上げることだと思った。

簡単に言えば、自分の好きな味を突き止める、
自分の好きなことを突き止める、
好きなものづくりを再発見する。

例えば、先ほど自分が話した嫉妬の対象は、
大体がSNSや人からの話で知った人である。

Twitterで、話題になっている。
YouTubeで、すごいことになっている。
あの新しいサービスは、界隈で話題らしい。

誰かの暴露話や芸能人のゴシップと同じ。
詳細は知らないが、
そうらしいと言う曖昧な情報で、
自分の感情を動かしているだけだ。

だから、もっと解像度を上げる必要がある。
なぜ、そんなことをしたのか。

本人たちから聞けば、
自分にも共感できる気持ちがあるかもしれない。

どうやって、そんなものを立ち上げられたのか。
たった数ヶ月で出来上がったと感じていたものは、
十数年の準備の上に成り立っていたりする。

そうすると、自分がこの10年でやってきたことを
強烈に考える、見つめ直すモチベーションに
なったりするだろう。


何も知らずに、嫉妬してんじゃねぇ。

全てには理由がある。理由がわからないから、
意味もなく大きく見えてしまう。
意味もなく畏敬の念を持ってしまう。
怖いし、恐いから、強く見える。
そう言うことかもしれない。

全ては解像度あげることから
始まるような気がする。
ワンカットだけ見て、
その映画を判断するような無意味さ、
絵の綺麗だけを競い合っている
絵画芸術の時代のような浅さを、
自分の人生から濾過する必要がある。

本質だけを身体に留めて、
自分の好きなものを今改めて、
実感する必要があると思う。

だからこそ、まずは僕自身が
好きなものや好きな人、
好きなものづくりを再観察し、
再発見することを行いたい。

自分の好きなものを、
研究する日々を始めたい。
なるべく身近で、
しっかりと解像度をあげられるものから。

別に嫉妬している人に会いにいくわけではない。
大事なことはそこじゃないし、
その感情で自分の行動は決めたくない。

だから俺は、自己嫌悪が強く、
同じくらい自己愛も強い俺は、
俺より好きな奴に会いに行く」という
テーマを掲げる。

『ストリートファイター2』ならぬ、
『復讐するは我にあり2』である。

今日話したかった話は以上だ。
意味分からなくても結構。
だってこのnoteは自分へのメモだから。
つまらない人は無視してください。
共感した人には、また報告しますわ。

具体的な僕の思考と行動を、
お伝えしていきます。
お金をもらう仕事とは関係のない、
新しい自分の生き方を記録していくので。

では、また!

タイトルに特に意味がないのが、好き。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?