日本企業の集団主義(=安心社会)は続くのか?
ここまでの議論で、集団主義のもとにある安心社会に浸った考え方をしていることは、新たな職を求めるのに有利ではなさそうなことは分かる。
とは言え、日本社会では安心社会が圧倒的に優勢であり続けるとしたら、そこから離脱することが得とは限らない。また、安心社会からの離脱が簡単だとしたら、そこまで悩む必要もない。
今回は、その前半部分が本当かを考えてみることにしよう。
安心社会は今後(定年後)も続くのか?
新聞などでも報じられるように、日本企業の集団主義は戦後高度成長の産物であり、もはや制度疲労を起こしているのではないかと言われてきている。その背後にある安心社会も長続きしないので、仕事探しの時には考え方を改める必要があるという主張も強くなっている。
しかし、このことを誰もが納得できる形で論じるのは、必ずしも簡単ではない。とくに30歳代前半で外資系に転職し日本企業での経験が短い筆者は、それを論ずるには適任ではない。
サラリーマン人生のほとんどを典型的な日本企業で過ごした先達に聞いた方が良いだろう。それに適任と考えられるのは、出口治明氏だろう。
出口さんは、日本企業の代表的存在である日本生命に就職しロンドン現地法人の社長も務めたエリートである。諸事情から定年直前の58歳で退職されたが、その経験から典型的な日本の大企業の行動様式を熟知されている。
その後、何と第二次世界大戦後初めて内閣総理大臣から生命保険業免許を取得し独立系生命保険会社のライフネット生命を創業されたという、稀な経験の持ち主である。リベラルアーツにも造詣が深く、現在は立命館アジア太平洋大学学長を務められている。
この観点からは、日本企業を外部の目で「客観的」に論じる適任者だと思われる。その出口さんが書かれた”「働き方」の教科書”という本が非常に参考になるので、少し長いがその要約を示そう。
日本企業の幸運な時代
出口さんは、以下に示すように日本の高度成長はいくつかの幸運な要因が組み合わさってできたものであると言われている。
伝統的な日本企業は、仕事の成果よりも従業員のロイヤリティ(忠誠心)を評価する傾向がある。ロイヤリティは組織に対する帰属意識のことで、終身雇用制度に引きずられた概念である。自由な転職がない社会なら、忠実な従業員の方がという発想である
このガラパゴス的な労働慣行が行われている原因は、三つの前提条件で説明できる。それは、「キャッチアップ型工場モデル」「人口増加」「高度成長」である
戦争中の言論統制があったにも拘らず、多くの日本人は第二次大戦に負けた原因は大和魂の不足ではなくアメリカとの生産能力の差であったことがわかっていた。そこで、戦後の復興に当たっては「キャッチアップ型工場モデル」でアメリカの製造業の真似をすることに決めた。
目的と方法論がわかっている時の最善策として、通産省が振る旗のもとで市民が何も考えずにガムシャラに働いた。その結果、大成功をし「高度成長」が30−40年続いた
しかも、外地からの引揚者で「人口が増え」、人々が赤ちゃんを産んだことでさらに人口が増え、経済成長を加速した
工場モデルでは集団が同一ルールで動くのが効率が良いので、国を上げて集団主義が奨励された訳である。
この結果として次のような日本企業の特徴が生まれたとのことである。
戦争で潰れた国は、市民に社会保障を提供する余裕がない。少なくとも、皆保険、皆年金の制度が完成する1961年までの16年間は、企業が社会主義国家における「人民公社」と同じような役割を担い、揺り籠から墓場まで従業員の面倒を見ていた
高度成長期の日本は、キャッチアップを続けるだけで毎年7%(10年で経済規模が2倍になるスピード)程度の成長を達成し続けたので、特段のリスクを取る必要はなかった。しかも慢性的な人手不足だったので、企業は体力があり文句を言わずに黙々と働くタイプの人材を求めて大学生を青田買いした。大学側も学生も、学業に血道を上げる必要はなくなる
労働分配率が変わらない限り、7%の高度成長が続ければ10年で給料も2倍になる。従業員も給料を失いたくないので、文句があっても会社を辞めずに黙々と働く。やがて、「給料は我慢の対価」という価値観が出来上がっていく
同時に企業にも、ライバル企業の人材は採用しないという不文律(暗黙の紳士協定)が形成される。こうして、企業の人事システムは終身雇用になっていく。終身雇用制が確立すると、本来難しい人事評価を簡単にする年功序列の評価システムができあがるのは自然な流れである。
年功序列では、後輩のポストを作るために役職者を占める高齢者を退出させる役職定年や定年の仕組みを作らざるを得ない。定年で企業から放り出される時の文句を封じるために、手厚い退職金や年金制度が準備される
このように見ると、「青田買い、終身雇用、年功序列、定年制」という日本独特の雇用慣行はワンセットであることがわかる。この一連のシステムは、キャッチアップ型工場モデル、人口増加、高度成長という3条件が揃って初めて成り立つ特異な慣行である。こうした慣行では、自ずとロイヤリティが重要になる
集団主義の価値観に従って一生懸命働いていれば、不況の時にも雇用も保障され長い間には給料もそれなりにもらえる。だから、社員も自分勝手な主張をすることなく、会社を辞めようともしない。
まさに安心社会である。ただし、その見返りにエリートでも賃金はそれほど上がらない。
筆者は外資系に勤務していたが、それでもこの特異な雇用慣行の影響を受けたことがある。
日本のコンサルティング部門がシンガポールのコンサルタントの教育をした時のことである。教育して2-3年経つと、なぜかシンガポールの人間の給料が日本より高くなってしまった。
こちらが教えたのにとアメリカ本社に文句を言ったところ、返された言葉が「だって君たちは辞めないだろう?」であった。
外資系に勤める日本人社員も、日本社会全体の影響を受けてそれほど頻繁には職を変えない。だから、外資系の各国の中では給料が上がるスピードが遅いのである。
それほどまでに、この特異なシステムの日本社会の中での影響力は大きいのである。
幸運な時代の終焉
繰り返しだが、このような特異な慣行はキャッチアップ型工場モデル、人口増加、高度成長という3つの前提条件が揃った戦後の幸運な状況のもとでのみ成立するものである。
しかし、皆さんご承知のように日本は少子高齢化を受け人口は減少し経済は低成長を続けている。つまり、今までの雇用慣行は長続きはしそうにない。
これについて、出口さんは以下のように述べられている。
(最後の部分は、別のところ(山口周、「自由になるための技術 リベラルアーツ」)での著者との対談で述べられていることである。)
前提となる3条件が失われた今、この特異なシステムは崩壊しかけている。にもかかわらず、今でも日本経営は素晴らしいと言って、この特異なシステムが受け入れられている
これは、現在の経営陣が成功体験を捨てられないからである。人間が成功体験を捨てることはおそらく不可能なので、現在の経営陣が退陣することを待つしかない
なぜここしばらく日本で成長率が低迷しているのかというと、製造業からサービス業へと産業構造が変化しているのに、人材も働き方も製造業の工場モデルを続けているからである。サービス業で問われるのは、与えられた課題をこなす力よりも、課題を見つけ出す力、新しいサービスにつながる独創的なアイデアを生み出す力だ
出口さんの”「働き方」の教科書”は、2014年に出版され後に文庫化されている。そろそろ10年が経ち、年功序列制の下では当時の経営陣はほぼ退陣していると見て良いので、さすがにこの特異なシステムを支持する経営者も少なくなり始めていると考えて良いのではないだろうか?
実際、2019年に就任してまだ60歳と若い富士通の時田隆仁社長が、大がかりな人事リストラクチャリングに踏み切った。このリストラは、脱メーカーを目指し会社の営業利益率向上とDX化の推進を図っており、従来の赤字対策のような後ろ向きのものとは性格がかなり異なる。
事実、時田社長は2022年12月27日の日経新聞の「そこが知りたい」のインタビューで以下のように答えられている。
「(ジョブ型導入による賃金)引き上げのメリハリは自然につく。従業員から能力や成果を評価して報酬を決めることを望む声を多く聞く。自分の働き方や価値観に富士通が合わなければさっさとやめて、合う会社に移るだろう。僕が入社した頃とは時代背景がまったく違う」
時田社長は、人材処遇の観点からも出口さんの言われるサービス業化を推進しようとしているのである。これを見ても、日本企業の雇用慣行も変わっていかざるを得ないことが窺える。
「安心社会の終わり」を告げる構造改革
「安心社会」の概念を提唱した山岸俊雄氏(故人)は、社会構造を洞察する社会学者だけあって、もう少し早い段階の2008年出版の「日本の”安心”はなぜ消えたのか」で同様の意見を述べられている。
戦後の日本経済は集団主義社会の特性を最大限に活かす形で発展してきたというわけだが、ご承知の通り、近年になって日本の社会はそのあり方を大きく変えようとしている
ケイレツや株の持ち合い、護送船団方式といった、戦後の日本経済を特徴づけていた集団主義的要素はそれも否定されるようになり、アメリカ流の「グローバル・スタンダード」に基づいた経営をどの企業も求められる時代になっている
こうした大きな時代の流れは、労使関係のあり方も大きく変えている。日本式経営の強さの源泉と言われた「終身雇用制度」も「年功序列制度」も、今や昔話になったといっても過言ではない
こうして見てると、戦後日本で長らく続いてきた集団主義の「安心社会」はもはや時代遅れのものとなり、日本もまたアメリカのような開放的な「信頼社会」へと変化しつつあるという印象を受ける
実際のところ日本人の多くが心の奥底で「もはや閉鎖的な集団主義の時代は終わった」と感じているのは間違いのない事実であろう。小泉内閣のいわゆる「構造改革」が、国民の圧倒的な支持を受けて行われたことはそのことの何よりの現れだと言える
たしかにこれだけ経済がグローバル化し、インターネットに象徴される情報化の流れが進展している現代の地球にあって、日本だけが昔と変わらぬ集団主義社会を維持するのは、それこそ鎖国でもしないかぎり無理な話である
ここまで書いてからメールを見ていたら、自動車総連会長ならびに連合(日本労働組合総連合会)の副会長を務めた人が次のように書かれている記事を発見した。いやはや日本社会も変わったものである!
「私は日本の属人的賃金制度や年功序列制度にずっと疑問を持っていました。もっと労働市場が流動化すれば、一人一人が自立して働ける、いきいきした社会になるのではないか、と考えてきたからです。しかし日本の労働運動は “雇用を守る”に重点が置かれ、欧米のように“仕事を守る”という動きにはなりませんでした」
このように全くバックグラウンドの異なった人たちが、日本企業の集団主義と安心社会は崩れかかっている、あるいは崩れたほうが良い、と論じられている。筆者はこれらの意見に強く賛同する者であるが、皆さんはがいかがであろうか?
次回は、これらの意見に賛同する方々を対象として「安心社会からの離脱が簡単だとしたら、そこまで悩む必要もない」が本当かを検討することにする。