空気を作る・感じる
コロナ禍によって様々な舞台が配信されるようになり、エンタメを自宅でも楽しめるようになりました。禍福はあざなえる縄のごとし、これ自体はコロナがもたらした数少ない良き変革と言えるかもしれません。しかし、社会活動が正常化して公演がこれまで通りに行われるようになると、やはり演者や観客が集う「場」でないと感じられない、「場」が生む「空気感」こそが醍醐味であることを改めて実感させられることになりました。
「場」が生む空気は、シチュエーションによって様々です。宝塚のみならず、クラシック・ポップス・ジャズなど、数百の様々な公演に参加した中で、特に印象に残っている空気をピックアップしてみたいと思います。
①ギュンター・ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団演奏会(2000年11月13日・東京オペラシティコンサートホール)
ヴァントは1960年代から度々来日して日本のオケを振ってきた、日本に縁のある指揮者ですが、1990年代後半にベルリンフィルを振ったブルックナーのCDが好評を博し、一気に人気が沸騰した経緯がありました。そのヴァントがかつて音楽監督を務めて楽団の黄金期を築いた北ドイツ放送響と来日する、88歳の巨匠にとって間違いなく最後の来日公演、しかも曲目はシューベルトの交響曲第7番「未完成」とブルックナーの交響曲第9番とあって、記念すべき演奏会の実現はまさに日本クラシック音楽界の大事件として受け止められたのでした。
ホールに赴くと、ホールの外には「チケット求む」の紙を持った人がそこかしこにいて、日常的に聴いている国内オケの演奏会とは明らかに違う雰囲気。会場に集う人たちも心なしか上気しているように感じられました。
開演時刻になり、オーケストラの団員が舞台に表れて、コンサートマスターが着席する際には軽い拍手があっていよいよ巨匠を迎えるその時。
空気が完全に静止しました。
単なる静寂、無音ではなく、空気が分子レベルでぴたりと止まった。そんな感覚でした。音を立てないだけでなく呼吸することさえも許されないような緊張感。一堂に会した2000人全員が同じ緊張感を共有した、奇跡の瞬間だったと言えるでしょう。それから様々な演奏会に行きましたが、こんな空気を体感したことは二度とありません。
ずいぶん長い時間に感じられましたが、実際にはほんの数秒間だったのでしょう。やがて老巨匠がステージに姿を現すと、ホッとしたように空気が緩んで万雷の拍手が起こったのでした。
どんな演奏会でも多少は演奏中に咳や物音が聞こえてくるものですが、この日は全く聞こえてきませんでした。当日の演奏を記録したCDのライナーノーツにヴァントの当日の感想が掲載されており、日本の聴衆の集中力の高さは素晴らしいと述懐しています。
演奏そのものも私がこれまでに聴いた中でベスト3に入る感動的なものでしたが、ピンと張り詰めた空気もまた非常に印象的なものとして記憶に刻まれています。
②坂本真綾ライブツアー2019「今日だけの音楽」一宮市民会館(2019年12月22日)
①は良い空気でしたが、②は喜ばしくない空気のお話。
坂本真綾さんは1996年から声優・歌手として活躍されており、ミュージカル俳優としても「レ・ミゼラブル」のエポニーヌや「ダディ・ロングレッグズ」のジルーシャでお馴染みです。
ライブ活動も盛んで、2019年にはアルバム「今日だけの音楽」を引っさげてのツアーが行われました。このアルバムはこれまであまり組んだことのなかった様々なアーティストとの綿密に作り込まれた楽曲が多く、ライブもワーッと盛り上がるのではなくてじっくり聴き込むスタイルとなることがファンとしては予想されました。
実際、特にライブ前半はメロウな曲が多く、真綾さん自身MCで「眠かったら寝ちゃって良いですからね」と冗談交じりに言うぐらいでした。
一方、当時大人気のスマホゲーム「Fate/Grand Order」(FGO)の主題歌を担当しており、そちらはライブ映えもする激しい曲調で、新しいファン層を獲得する契機となっていました。その結果、従来からのファンが「基本的に座って聴くが盛り上がる楽曲では立つ」というスタンス(真綾さん自身も同様のスタンスを志向)な一方で、「とにかくライブは盛り上がるもの」という層が流入することになりました。
そうした状況の中で、ご新規さんが妙な動きをしないと良いのだけどと個人的に心配していたのですが、ツアー3公演目の一宮市での公演でそれが現実のものとなってしまったのでした。
開演直前、最前方に座っていた男性がやおら立ち上がって客席に立ち上がるよう促し始めたのです。恐らく彼が普段行っているライブでは開演したときには全員立ち上がっているのが普通なのでしょう。しかし真綾さんのライブではそうではないし、とみにこのツアーの冒頭はバラードが続くので、いきなりスタンディングになる要素は全くなく、会場には戸惑いの空気が満ち、声にならないざわめきのようなものが広がりました。それでも一部の客がそれに呼応して立ち上がり、おかしな雰囲気のままライブが始まりました。
闇雲に盛り上がりたい一部のファンと真綾さんの世界をじっくりと堪能したいファンと噛み合わない雰囲気のままライブは進み、本編が終わると今度は「まーや」コールが始まって再び戸惑いの色が濃くなる羽目に。アンコールは通常手拍子のみですし、何より真綾さん自身が呼び捨てで呼ばれるようなことを好きではないことをファンは知っているので、戸惑いを越えて冷や汗に近い気持ちにさせられました。
案の定真綾さんは出てくるなり「聞いたことないコールが聞こえたけど名古屋はコレでいくの?もうすぐ40なんだからお願いしますよ」とチクリ。最終的には「好きにやってください」と言ってくれたものの、いつもと違う空気を感じていたことは明らかで、彼女に対して申し訳ないような気持ちにさせられたのでした。
「空気を読む」ことが日本人の悪しき慣習としてあげつらわれるようになって久しいですが、ライブのように聴衆も会場全体の空気を作るパーツである場にあっては、「その場に相応しい空気を読む」ことの重要性を改めて感じた一夜でした。
③宝塚歌劇月組「エリザベート」(宝塚大劇場 2018年9月22日)
こちらはあまり歓迎したくない理由ではあったものの客席の空気が見事に一つにまとまった出来事です。
楽屋口でのギャラリーが普通にできた頃でしたので、いつも通り9時頃に大劇場の楽屋口前に行くと、顔見知りの方から急遽フランツ・ヨーゼフ役の美弥さんが休演するため代役公演になり、そのために月組生全員が通常よりもずっと早い時間に慌ただしく入って行ったことを聞きました。
良く知られた作品であり、一度は代役稽古もしているとはいえ、いきなりナンバー・セリフともに多い役に臨むことになる月城かなとさん・風間柚乃さんのみならず、キャスト・スタッフ共に全く勝手の違うことを急遽やらねばならないわけで、俄然観る側も緊張を強いられることになりました。
殊に幕開き一番が風間さんのルキーニのセリフからということで、新人公演で演じたとはいっても本公演は別物であり、こちらがドキドキしても仕方がないのですが、妙に心拍数が上がった状態で客席に着くことになりました。
恐らく準備が整わなかったのでしょう、いつもならほぼ時報と同じタイミングで開演するはずなのに、何のアナウンスもないまま数分が過ぎました。客席がざわつき始めた頃に影ナレが始まり、一気に緊張が高まりました。
幕開きだけではなく、ルキーニの出番が近づくたびに、客席の緊張の度合いが高まるのが良く分かりました。ある意味客席が一体になって風間さんを見守っていた状態だったと思います。2幕の幕開きにあるカメラのアドリブをどうするのか、固唾を飲んで見守りましたが、結果的にはアドリブなしで脚本通り。当然といえば当然で、場面を難なくこなしてみな胸を撫で下ろしたのでした。
フィナーレでは、これまでに聞いたことのないような万雷の拍手が大階段を下りる風間さんを迎え、本当に感動的な光景でした。
本来あまり望ましくないハプニングではありますが、まさにライブだからこそ感じることができたドキドキと感動でした。
やはりエンタメには「空気」が必要です。そして良い空気を作るためには、ステージ上の演者だけでなく我々観客の存在も重要になります。お金を払っているのだからただ受け取るだけということではなく、ステージと客席でエンターテイメントを作るという意識を気持ちの片隅に持ちながら、劇場・ホールに足を運びたいものです。