コロナ禍によって様々な舞台が配信されるようになり、エンタメを自宅でも楽しめるようになりました。禍福はあざなえる縄のごとし、これ自体はコロナがもたらした数少ない良き変革と言えるかもしれません。しかし、社会活動が正常化して公演がこれまで通りに行われるようになると、やはり演者や観客が集う「場」でないと感じられない、「場」が生む「空気感」こそが醍醐味であることを改めて実感させられることになりました。 「場」が生む空気は、シチュエーションによって様々です。宝塚のみならず、クラシック
学校の身体測定で座高を測ったことがあるか否かというのは、世代を分ける区切りの一つではないでしょうか。 座高の計測を止めることになった理由が奮っています。 「意味がないから」。 何のためにやっているのかよく分からないけど、とりあえず前例踏襲。こんなところにも日本社会の悪弊がこびりついているのが何ともやるせないところです。 そもそもどうして座高なんてものを測ることになったのか。阿部寛が我々日本人を「平たい顔族」と嘲笑したのと同様に、WHOあたりが我々を「足短い族」と罵