「アバター近藤が解説する業界史~逆タイムマシン経営論225」
みなさん こんにちは アバター近藤です。
「逆タイムマシン経営論」として、業界唯一の経営情報誌であるフィットネスビジネス誌(元々はクラブマネジメント誌としてスタート)のバックナンバーを引用しながら、それぞれの年のトピックスや記事について、示唆することは何かをアバター近藤なりに解説していきます。
「歴史に学ぶ」とは良く使われる言葉ではありますが、フィットネス業界史について、詳細に検証した文献は恐らくないと思いますので、これから良い歴史を作るために何かしらのお役立てになれば大変うれしく思います。
~クラブマネジメント通巻第33号(2001.3.25発行)「日本のフィットネスクラブ産業史」4~※名称等は当時、一部文章省略
1980年代後半に入ると、日本経済は「バブル」の兆候を見せ始めた。
1980年代最後の3年間には年間200軒を超えるクラブがオープンし、フィットネスクラブ業界最大の成長期を迎えた。
これにはクラブ経営企業側の出店意欲の高さのみならず、土地を提供するオーナー側の事情も強く影響していた。
土地オーナーにとって、バブル期は土地の評価額も高く固定資産税や相続税も高くなるためそれらを低減させようと、積極的に資金を借入れクラブ等の施設開発を進めていった。
また資産を増やしながらも会社全体としての所得税を低減させようと他事業との損益通算処理が行える不動産賃貸業として、クラブ等の大型賃貸施設の建設を積極的に進めていった。
加えて、こうした動きを金融機関が強く後押ししたということも大きな背景要因のひとつとしてあった。
そのためスイミングスクール業界で先行していた大手3社の、ピープル、セントラルスポーツ、NASは、既存のスイミングプールに、ジムとスタジオを増設するなどして、成人も集客できる総合フィットネスクラブへと業態転換を図っていった。
また、この頃業界の成長度と健康的なイメージの良さから異業種の大手企業の参入も加速した。
いちはやく参入したのが洋酒メーカーのサントリーであり、1987年に「ティップネス」1号店を渋谷にオープンさせている。
翌年の1988年には業界全体で年間最高の新規開業施設数、224軒を記録した。
~ここまで~
まず、1年で200軒以上の出店について、当時、凄かったのが、ほとんど全て総合型フィットネスクラブであったということです。
現在の出店の主流となっている24時間ジムやサーキット型ジムは、数千万円の開発コストになります(これでも大変な金額ですが)。
一方で、総合型クラブとなれば数億円、大型クラブとなれば10億円以上も掛かると考えると、当時の出店ラッシュには多額の資金が投下されていたことが理解できます。
そして実はこのことが、パンデミック下の業界苦境の伏線になっていると、アバター近藤は考えております。
つまり業界発展の経緯が、フィットネスの本来価値である健康実需から創出されたものではなく、当時の社会情勢からの不動産有効活用策あるいは税金対策であったからです。
このブログを通じて、フィロソフィーの大切さを再三、述べておりますが、そもそも出発点が違うことが問題の根深さを物語っていると思います。
本日もお読みいただきありがとうございます。
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