ないがしろにされる人の心 ―会見について



会見の場に、精神科医と臨床心理士がいない(人の心について詳しい人がいない)、ということが実は重大な問題でですね…。

この不在について、nobody、誰も言及もしなければ問題にすら感じていないことが、結局は誰も人の心のことを深刻に考えようとしていない現象のそのままの表れとして見ることができる。

もっと言えば、人の心のことを真剣に勉強している人たち
(つまり臨床心理士或いは精神科医など)の「配置のしかた」や「使い方(つまり、これらの人たちを雇用することの意味)」が、2025年になってもまだほとんど(まったく)理解されていない、ということの表れでなのである。

頭が白くなった偉いさんたちが「被害者のプライバシー」とか「被害に合われた方の…」などの言い方をするのは、あんなどド素人連中、および中継聴衆の人たちには、単に事実を覆い隠そうとする口実にしか聞こえないだろう。

人の心は社会というものを抜きにして語ることはできません。そういうことはできないのです。不可能です。

どういうことか。

人の心を勉強する、ということは、社会から見た人の心を勉強することでもあるのです。
(人の心と社会との間には常に、関係というものがある、ということです)

もっと人の心のことをちゃんと理解しようとしなさい。
馬鹿どもが。

口で聴こえのええキレイごと言うだけ、ではなくて、や。




なんとなく、伝わったら、それでいいです。


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