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#82作務(さむ)

自分みがきに時間を使いたいけれど
雑事がいっぱいあって時間が取れない
というとき、ありますか?

私はnoteを書いたり
筋トレをするのは
朝と決めていていますが、出勤前は
身支度やら猫の世話やら
やらなくちゃいけないことも盛りだくさん
出かける時間に間に合うか
焦ったりイライラすること、もちろんあります。

そんなとき自分に「これは作務だよ」
と言い聞かせます
心を込めてやる、というよりは
淡々と眼前のことに取り組むという感覚です

作務、とは「務めを作(な)す」の意味で
修行道場における
清掃や炊事、庭や建物の手入れや農作業など
すべての労働を指す言葉です
そして禅では、この作務を
とても重要な修行として位置付けています

通常修行というと座禅を組んだり
経を唱えたり、師匠と問答したり
というのがイメージされますが
むしろ
日常の生活そのものが修行であって
仏としての自己を調える修行なのだ
と考えられています

ですので
生きるために必要な生活を調える作業は
「自分に与えられた仕事に
 一心に打ち込むことこそ大切なのだ」
と体験的に学べる修行の場なのです

「役割を担う意味」について
考えることのできるエピソードを
学びましたのでご紹介します

曹洞宗の開祖道元禅師が
宋での修行の際、ある景色を目にしました
夏のやけつくような暑さの中
腰の曲がった老僧が、海藻を干していたのです

道元禅師は思わず駆け寄って
「あなたのような老僧がどうしてこんな大変な仕事を?」
「しかもこんな暑い日に??」すると老僧は
「ほかの人がやったのでは、私の修行になりません」
「いまやらないで、いつやるというのですか?」
と答えたのです
この老僧は修行道場の食事をつかさどる
「典座(てんそ)」を担っていました

食事など
誰かの修行を助ける役割を担うことは
自分のために修行するよりも
はるかに尊い修行となる。
その事実に気づかずに
ただ漠然といやいや仕事をするならば
それは、無駄につらい思いをするだけで
結局何も得ることができない。
それは
あたかも宝の山に入って
手ぶらで帰ってくるようなものだ。
と、のちに道元禅師は語っています

そのようにとらえますと
雑事とよぶ所作はなにひとつないのだ、と気づかされます。

参考文献↓

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