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贔屓を見送ったあとのよしなしごと

2018/10/14、贔屓は宝塚歌劇団花組を卒業しました。

退団発表があった2018/5/31から数えて136日間、長いような短いような…
やっぱり短かったかな、
悔いなく過ごすためにはどうしたらいいかもがきつつも、
結局は今まで通りにしか過ごせなかった日々でした。

以下、その余韻の中で綴るテキスト。
(※宝塚では所謂「推し」のことを贔屓と呼びますので、以下その表記です。誰のことかはお察しください。)

思い返せば、気になってお茶会に参加したのは2011年の「愛のプレリュード/ル・パラディ」(真飛聖さん退団公演だ!)、
応援らしき姿勢になり始めたのは同じく2011年の「ファントム」(蘭寿とむさんお披露目公演だ!)と、気づけば7年間応援していました。
その当時21歳だった私は今28歳です。って思うと7年間の重みがあるな…

行けるときに入り待ち出待ち行って(※宝塚は入り出が黙認されているので)、
買えるときにチケット買って(できれば贔屓の足しになるような形で)、
伝えたいことがあればお手紙書いて、
ちょっとずつ積み重ねていった7年間、
もはや公演ごとのルーチンだったのがなくなっちゃうのは寂しいけど宝塚ファン・花組ファンしてたいから現場には適当にいると思います。


さてここからは
「誰かのファンをやることで自己肯定感を得られた」話。

(世間的な宝塚ファンのイメージがどのようなものかはあんま分かってないけど、)
没入感持つのとかキャアキャアするのとかが出来なくて、楽しいはずなのについ斜に構えたように引いて見てしまう自分のことがすごく嫌いで、
なんで上手く振る舞えないのにここに私はいるんだろう、と気に病んだり落ち込んだり卑屈になったり、
「どうせこんなのほんとうのファンじゃないんだろうな」
と思ってたんですよ。

でも、贔屓に会いたくて入り待ち出待ちに行く、
お茶会(本人が来るファンミーティングのようなもの)に行く、舞台姿が観たくて観劇をする。
となると優先すべきは楽しみたい気持ちであり、ほんとうのファンが何かを定義して自分がそれに当てはまるかどうか、ではないわけで。
…そう思えるまで、随分時間がかかったけれど。

間違ってんじゃないかなあ、ファンらしくないよなぁと思いながらも贔屓に舞台の感想伝えたとき、
あるいは入り待ち出待ちで贔屓を待つ間、他のファンの方と舞台やその他のことについてお話しているとき、
ひとつも、否定されることなんてなかったんですよね。
そういった一つ一つの積み重ねが「別に人と同じ(と自分が思い込んでいる)ことを考えたり、人と同じように表出できなくてもいいんだ」という着地に私を導いてくれました。
いやまあ当たり前のことなんですけど、つい人と比べてしまうので…。

でもさ人は一人ひとり違うから、人と同じやり方で出来なくてもいいっぽいね。
ただ、オタクとしての矜持を持ってシュッとキリッとやっていくのと、やさしさは忘れずに、といったところか。
人と同じようにできないと思ってても、もしかするとこのやり方もなかなか悪くないのかもね、と思っているところ。
結果として「私は私のためにファンをやっていた」し、
誰かを応援することは自分に良い影響があって、
その一つが「自己肯定感を得られたこと」か。めっちゃいいですね。自分で言うけど。笑

贔屓が愛されているなと思うとき、私もまたそのような気持ちになり、
贔屓が自信に満ち溢れているとき、次の人生を決めたとき、私もまた…と、贔屓の背中を見ては「私はどうだろうか」と常に自問自答していた日々でした。
なんやかんや言ってもだいすきで、常にリスペクトの念を持ち接したい人だった。
とはいえ完璧な人でもなく、至らないところはまあ…お互い様よ、ファンも贔屓もヒトに過ぎぬ笑

別にね誰かを応援しなくても生きていけるんです。ともすると無駄遣いって言われちゃうかもしれない、応援って。
でも、ほんの少しでも自分以外の誰かにリソースを割くことは、ちょっと負荷があるぶん何かしらのリターンもあるわけで。
その面を見ると、誰かの為をおもい応援するってのは自分のためだなぁと思うのです。

だからね、7年間自分なりに時間とお金使って超楽しかったからオールオッケーです、今となってはぜんぶほんとに幸せでした。
大好きだと思える人を、それなりに心血注いで応援する期間、私の人生に必要なことだったと思います。
私は私らしく今後もやっていくので、贔屓も贔屓らしくやってってくれたら、それで。
それにしても。バウホールやシアター・ドラマシティはもとより、中日劇場や博多座まで連れてってくれて、最後東京宝塚劇場の大千秋楽の景色も見せてくれて。着いてったら楽しいとおもった直感当たりました。

そうそう、退団発表出てから「他人なので」がキーワードでした。
他人の人生について一ファンができることなんて知れていて。そう思って自分を見つめ直したり、どうあがいてもできなかったことに諦めをつけたり、「自分ができること」の天井を見ました。
…他人なんだよ、でも宝塚のご縁で繋がったんだ、あなたも、わたしも、贔屓も。

大千秋楽終えて、フェアウェルパーティーまで終えた勢いで今この文章書いてますけど、思ったより泣かなかったなぁとか、サラッと時間が過ぎて終わっちゃったなぁとかそんな感じです。
これから泣くのかな。わかんないな。そのときはそのときだ。

こんな私でも宝塚ファン、誰かのファンで居させてくれて、夢を見せてくれて、大事なことを教えてくれた、贔屓及び宝塚のご縁で出会うことができた皆様に感謝します。
これからも私は適当にやります、皆様もどうか適当に。
ここに書ききれない話はたくさんあります、是非お会いしたときにお話しさせてください。
もしよかったら、あなたのお話も聞かせてください。
タカラジェンヌの数だけ物語があるのと同様に、
ファンの数だけ物語があり、
その一つ一つにその人の人生が垣間見えるから、だから…誰のどんなファンか聞かせていただけるのは、とても興味深く有り難いことです。

さてそろそろ筆を置き明日を迎える準備をしましょう。
贔屓のいない花組は、宝塚歌劇は、当面は少し寂しい。
けれど、明日からの毎日も、きっと良いものになるから、寂しさよりも楽しみな気持ちのほうが強いです。

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ぞう氏
目に留めていただき、読んで頂き有難うございます! この文章から何か感じるものがあればうれしく思います。