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縄文考“やまと”とは何か?


2012年


東日本大震災から一年が経ち、復興に向けて人と人とが“つながる”ことが重要視されています。この震災により日本人同士の“絆”を再確認することとなりました。

私たちは未曾有の震災から言葉を失い、徐々に復興に向けての言葉を産み出しています。
2011年をあらわす漢字は“絆”になり、“つながろう”も多く使われるようになりました。

この文章は“ヤマト”についての論究ですが、今の私たちにとって大切な言葉である“つながろう”と“絆”を最初に取り上げて考えます。

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                  『2011年 今年の漢字Ⓡ』(財)日本漢字能力検定協会 

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                          JR東日本「つなげよう、日本」キャンペーン

“繋(ツナ)がる”と漢字表記されますが、読みは名詞の“綱(ツナ)”と同じ音です。
“繋がる”の意味は
⦁ つらなり続く。継続する
⦁ ひかれる。ほだされる。
⦁ 結ばれる。関連する。(広辞苑より)
となります。“繋がる”の意味は“綱”の形状と関連する内容を多く含みます。
であるなら、名詞を動詞化して“つながる”になったと考えられます。

“絆”の語源は「動物をつなぎとめる綱」「引き綱」のことをいい、
「動物や人を束縛して動けなくする」ことから転じて、
「人と人の強い結びつき」「断ち難いつながり」という意味になったようです。
読み方は“キヅナ”と表記されますが、ここにも“ツナ”が使われています。

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                                                 諏訪大社の元綱 

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                                  縄文時代前期 笠懸町清水山遺跡

どちらにも“ツナ”が使われています。だとしたら
震災後、日本人に必要な言葉には「ツナの思想」があるのではないでしょうか。
そしてそれは「縄文土器」と結びつきます。唐突に感じるかもしれませんが
縄文土器には装飾に“縄目文様”が施されています。
土器のカケラをみつけると必ずと言っていいほど縄を押し当てて転がしてできた縄目文様があります。
“縄(ナワ)”も“綱(ツナ)”も繊維を螺旋状に撚り合わせたロープですが、違いは太さにあります。装飾の意味は綱(ツナ)に隠されています。
縄文土器の縄目文様は“綱文様”と解釈することにより文様に込められた思いが理解できるのではないか、そのように私は考えています。
縄文土器に施された“綱文様”は人と人が繋がり合うことの重要性を説いた
「ツナの思想」を表します。

縄文時代における「ツナの思想」とは、どのようなことを重要視していたでしょうか。
縄文時代の社会状況から考えると、それは「生きること」「続くこと」が中心になります。
そのため、男女の性交によって“ツナがる”こと、そして子や孫に命が“ツナがる” ことになります。
それは「気が遠くなる程つづく、血縁関係や共同体に自らの存在を実感する」という思想になります。

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                                                    那覇大綱引き

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                                        大和の奇祭 「お綱まつり」

もうひとつ、現在もっとも重要なのは
「人と人が助け合う相互扶助の“ツナがり”」です。
私は言葉の“ツナ”に込められた思いを考えると、日本語とは縄文人が積み上げて作り出した「ヤマトコトバ」であることを強く感じます。

これから日本語(ヤマトコトバ)は縄文時代から続く言語であるという前提に立ち、
「ヤマトコトバ」の“ヤマト”にはどのような意味があるのかを推論します。

そこに縄文時代から続く祖先の知恵があると考えられるからです。



1.中心軸の設定

“ヤマト”は“大和”と表記しますから「和の心」を連想します。その他にも沢山のイメージが浮かび上がります。例えば
○大和魂・大和撫子  ○現在の奈良県
○日本の古い国名   ○戦艦 大和
○大和朝廷      ○魏志倭人伝 邪馬台国
○倭
上記以外にも日本らしい事象や会社の社名に使われるなど多岐にわたっています。
日本人にはどこか誇りと郷愁を感じる“ヤマト”ですが、実は意味がわからない“謎の言葉”になります。
漢字表記は“大和(ダイワ)”と書きますが、なぜか“ヤマト”と読みます。このことは日本人の誰もが不思議に思うことです。いくつかの解明を試みた文章を読むと“ヤマのフモト”を表すのではないかと考えられています。
きっと正しいのかもしれませんが腑には落ちません。
何かもっと“ヤマト”には祖先の特別な思いがあるのではないかと考えたくなります。

これから“ヤマト”の意味を推論します。
たくさんの資料を参考にするため軸(ポジション)を設定します。
中心軸は国学になります。そして縄文を含めます。
軸の外周に考古学、文化人類学、民俗学、脳科学を配置し、もっとも外側に生活実感を設定します。

国学は正確には古学(いにしえまなび)といいます。国学は安定した時代を築き上げた江戸時代中期に産まれました。社会が安定しなければ自らのルーツを探すことや“いにしえ”に思いを馳せることはできません。
→やさしく読む国学 中澤伸弘著
国学には『漢字渡来以前のヤマトコトバこそ重要』という考えがあります。
この考えを基礎にして漢字の意味にたよらず音声言語としての日本語(ヤマトコトバ)で推論します。そのためカタカナ表記を多くします。それと意味を探る場合も漢字表記を極力避け、英語表記を使います。
日本語(ヤマトコトバ)にべったり貼りついた漢字表記を洗い落としながら奥に光る「何か」を探っていきます。
もうひとつ、軸に設定した縄文ですが考古学の区分という使い方ではなく概念と考えます。その概念とは「縄文文明論」になります。
以上の軸から、なぜ“ヤマト”を解明するのか?目的を述べます。

日本の国柄を“和”という漢字(外国語)で表わすことに満足せず、
日本の国柄は“ヤマト”だと考え、日本語で意味を解明することを目的とします。

それでは始めます。




2.なぜ“ヤマのフモト”なのか?
ヤマトコトバが育まれ、使用されてきた地域を考えます。
縄文時代における日本列島内の人口分布を参照します。

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最も新しい説はコチラ→

前期・中期・後期において人口密度が高いのは関東・東海地方です。圧倒的に集中しています。なぜこのような偏りがあるのか、不思議に思います。新しい説でも関東・東海に人口が多いことには変わりません。
弥生時代にようやく近畿まで人口密集地域が広がります。
なぜここまで人口比率の偏りがあるのでしょうか。この疑問は食糧確保の理由で多くを語られますが、何か別の理由を感じずにはいられません。
関東・東海にどのような共通点があるでしょうか。その共通点に謎を解くカギがあるような気がします。
私は画家なので、人間が生きていくうえで重要ではない事にあえて注目します。
わたしが思う共通点は「風景」です。

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二見浦真景 明治20年

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富士吉田市歴史民俗博物館蔵

「日本」をイメージする最も有名で、ありふれた景色です。
ひとつは富士山が見える事。もうひとつは太平洋から日の出が見える事です。
富士山が見える極限の地域はもう少し広くなりますが、日常的に天気が良ければ見えるのは
茨城から三重になります。
現代でもお正月に必ず使われるイメージ画像は「富士山」と「初日の出」です。
富士山が見える物件、美しい日の出が見える物件は今でも高い付加価値があります。縄文人にとっても景色が居住地域を決定する要素であってもいいのではないでしょうか?
「富士山」と「日の出」をことのほか大切にする人々、それが日本列島に早い段階から暮らしていた私たちの祖先である縄文人だと考えます。

この共通点「富士山」「日の出」をヤマトコトバにして整理します。

富士山が見えるフモト → ヤマのフモト → ヤマト → 大和
海から日の出が見える → ヒノモト → 日本
どちらも日本国を表す言葉になります。
どちらも景色から生じた自然崇拝のコトバであり縄文由来となります。

“ヤマのフモト”の“ヤマ”は「富士山」を表すと考えます。
縄文人が暮らす地域、そして富士山が見える地域で話される言葉。それがヤマトコトバであると考えてみましょう。
するとヤマトコトバが産まれ・育まれた地域は関東・東海となります。
ですので、ヤマトコトバの発祥は関西でも九州でもないと考えてみます。教科書的には日本文化の起源に奈良・京都をイメージしますが、それは弥生時代・古墳時代以降です。
そして、もうひとつ重要なことは奈良・京都から富士山は望めません。
縄文時代から考えると多くの人々が暮らした場所は関東・東海となります。
弥生時代から人口密度の高い地域が近畿まで広がります。
この拡大領域が“ヤマト”と呼ばれた地域の広がりと考えることはできないでしょうか?

“ヤマト”は“ヤマのフモト”を表すため、漢字表記は“山門”“山処”が正しいと考えられています。しかし、ヤマトコトバを漢字で表記する正しさは何度も保留にすべきだと思います。
漢字で意味を固定化するのではなく、音声言語の“ヤマト”には重層化された意味があると考えるべきです。


まとめ
縄文時代の人口密度から“ヤマト”のヤマは富士山を表す。
富士山が望める地域が“ヤマのフモト”であり“ヤマト”となった。
しかし、漢字表記“山門”・“山処”は保留にする。



3.“ヤマト”を日本語で探る
その他の意味を探りましょう。
最初に“ヤマト”を分解します。
ヤマトコトバの単語は2音で構成されることが多いので

“ヤマ・ト”と分解します。
“ヤマ”を調べると“やま(山)”しかありませんので、これは間違いなくMountainです。  
“ト”を調べるとたくさんの意味がありますが、私が注目するのは並立助詞の“~と~”です。英語の“and”です。 

“~と~”が最も重要な解明になります。日本語文章での助詞の働きに注目します。

日本語文章の中で“~と~”には驚くべき役割がありました。
「AとB」と表記します。A・B どちらが上位でどちらが下位でしょうか?答えは、

AもBも等価になってくっついています。

「鈴木さん“と”田中さん」
これはまったく違和感がありません。
「犬“と”私」この表現だと犬を家族の一員としている愛情が感じられます。犬はペットというポジションではなく家族の一員になり、人間と同一になっています。

では、「王様と私」「天皇と私」ではどうでしょう。このように書くと、ある違和感があります。等価ではない関係性を等価にしようとする表現上のレトリックを感じます。

「AとB」とは、AとBに差がない、区別がない、同じ仲間でくっついて同化している。
「と」にはそのようなチカラがあるのではないでしょうか。

更に次のようにイメージしました。“と”によってたくさん“ツナ”げます。

AとBとCとDとEとFとGとHとIとJと・・・・・・

次にもっとイメージを膨らませてみます。

                A と
              と     B
             H       と
            と         C
            G         と
             と       D
               F    と
                と E

このように円環にすると“ワ”になります。
“ワ”と“ト”はこのように関わっていると考えられます。
「たくさんの“~と~”によって人と人が“ツナ”がり、“ワ”になる。」
これが“ト”の重要性です。
日本語において“ト”は人と人とを等価にし、“ツナ”ぐ役割をします。

日本語は漢字渡来以前から存在します。ならば単語の意味を探ることは「漢字」の成り立ちを調べる事ではありません。それは中国語を調べることになります。
当たり前ですがこのことを見過ごすことが多くあります。
国学ポジションから日本語(ヤマトコトバ)を調べるには日本語の中でコトバとコトバがどのような役割をしているのか?その微かな響きに耳をすまし聴きとることだと思います。
ここまでが“ト”の解明になります。ここからはなぜ“ヤマ”なのかを考えます。

“ヤマ”を全訳古語辞典 (旺文社)で調べます。
いくつかの意味がありますが、私がピンときたのが④と⑤です。
④多く積み重なっていること、またそのもの
⑤高くすばらしく、あこがれの対象となるようなもの、仰ぎ見て、頼りにするもの
これで“ヤマ”をMountainではなくGreatとも考えることができます。

ここまで調べると“ヤマト”は
“ヤマのようなト”
“たくさんのト”
“偉大なト”
“オオいなるト”
の意味になり“ト”の重要性を強調する役割がありそうです。


次に“ヤマト”に別の区切り方を当て嵌めます。
“ヤ・マト”に分けます。

“ヤ”の意味を考えます。
ヤエガキ(八重垣)、ヤエヤマ(八重山)、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)、ヤクモ(八雲)、ヤハタ(八幡)などから“ヤ”は“8”の意味がありますが、“幾重にも”の意味があります。

“マト”はcircle/targetの意味があり、同心円をイメージします。
また、古語に残る“マトイ(円居)”にはたくさんの人々が丸く並んで座ることの意味があります。
“ヤエ・マトイ”だと考えると人々が幾重にも円くなって座っている車座のイメージが浮かびます。
生活実感として日本人の協調性や連帯意識、及び集団合議を表す言葉かもしれません。
集団合議の最終決定は意見を“マトめる”ことになります。

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    観光町づくり車座座談会in高野山からお借りしました


ヤマトが2音で構成されている考え“ヤマ・ト” “ヤ・マト”の意味を考えてきましたが、特に前者の“ヤマ・ト”がしっくりくるように思われます。
しかし、言葉のアヤ(綾)からはどちらも“縄文人体質・気質”を表しているヤマトコトバとしての「ヤマト」だと思われます。



4.アヤで解く“ヤマト”
前述したようにヤマトを“ヤマ・ト”に分解した場合、“ヤマ”を“大きな”“たくさん”と捉えると、“ヤマト”ではなくて“オオト”でもいいのではないか?と考えられます。
実際“ヤマト”の地名があるように“オオト”という地名も多くあります。

(地名:オオトのリンク

ではなぜ“オオ”ではなく“ヤマ”が選ばれたのか。“ヤマト”を読み解く次の疑問になります。

それは「アヤ(綾)」ではないでしょうか。
「アヤ」とは
・文章などの表現上の技巧。いいまわし。ふしまわし。
・経糸(たていと)緯糸(よこいと)が交差した模様、織物
になります。

古代の人々は言葉や文章が醸し出す深い意味を織物に例えました。
日本語の表現技法である「アヤ」の他にも、「原文・文章」の意味を持つ「TEXT(テキスト・テクスト)」の由来はラテン語のTEXTUS(織物の意)になります。
縦軸の意味、横軸の意味が交差し織りこまれ、言葉や文章の織物が出来上がります。

次に「アヤ」はレトリック(修辞技法)とほぼ同義だと考えられます。

レトリックとは
・相手に感動を与えるように最も有効に表現する方法・・・広辞苑
・文章表現の効果を高めるための方法・・・明鏡国語辞典
「アヤ」は文章表現の技術(テクニック)になります。

本居宣長「うひ山ぶみ」から「アヤ」について抜粋します。
〈ウタ(歌)についての心得〉
そもそも歌とは、思う心を言い述べる術のうちでも、日常の言葉と違って、必ずことばに
綾(アヤ)をなして、しらべを麗しくととのえる道具である。このことは神代のはじめからそうであった、ことばの調べに無関心でただ思うままに言うのは、普通のことばであって、歌というものではない。
人が聞いて、ああいいなと思い、神が感心するのもよい歌に限られるのである。よくよくことばを選んで、麗しく歌を詠まなければならない。

この「アヤ(=レトリック)」の技法を“ヤマト”に当てはめると“オオト”では表現が直接的で受けるイメージに広がりが持てません。“オオ”ではなく“ヤマ”にすることで“ト”の重要性や自然界の広がり、万物の繋がりがイメージしやすくなります。
“オオ”の場合は“たくさん”“多い”ことは理解できますが、そこまでになります。
“オオ”を“ヤマ”に変更することで日本列島の風景が浮かび上がります。
日本の景色は世界中の絶景に見られるような人智を超えた風景ではありませんが、個性的な山があふれる国です。日本では特徴のある山が多く、日本人は山に対して尊さと親近感を持ちます。
数量的な多さを表現するだけではなく、偉大で、ゆったりとした安定感を感じる大きさを“ヤマ”に込めているのではないでしょうか。
この根底にある感情が“ヤマト”の“ヤマ”であると考えられます。

“ヤマト”はわずか3文字ですが、意味の重層性そしてイメージの広がりがあります。
それがヤマトコトバの「アヤ」であると考えます。
漢字表記は“呪能”があり意味を固定し縛りつけます。
音声言語のヤマトコトバは複数の意味がタテとヨコに織られアヤをなします。

まとめ
“ヤマのフモト” (富士)山のフモト
“ヤマと”    山と共に暮らす。
“ヤ・マト”   同心円上に何層も拡がる
“ヤマ・ト”   たくさんの人々が繋がる
以上、4点の内容を含んでいるのが“ヤマト”だと考えます。
どれか一つが正しいのではなく、すべてを含み、まだ他の意味があると考えられます。

ここまで調べた結果、“ヤマト”の意味することは
「(雄大な)山のフモトで暮らす人々が、山の恩恵を得て、たくさんの“~と~”によって“ツナ”がり“マト”まる。」

ここで最初に記した縄文土器の装飾が表す「ツナの思想」を思い出してください。
縄文土器は「人と人とが“ツナ”がることの重要性」を表しています。
ヤマトは「人と人とが“ツナ”がり“マト”まること」を表しています。
ならば“縄文土器”と“ヤマト”は関わりがあるかもしれません。

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ベニバナで染めた国内最古の布製品と確認された正倉院の「紅布衫」  (正倉院事務所提供)

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福井人の生活  昭和五十六年の第一号丸木舟発見時 編布の発見


追記:

縄文土器「ツナの思想」とヤマトコトバ「アヤ」について
植物繊維を撚り合わせると「糸(イト)」になります。糸を撚り合わせると「紐(ヒモ)」になります。更に撚り合わせると「縄(ナワ)」になり、「綱(ツナ)」になります。
細い繊維を撚り合わせ次第に太くしていくと、力強い螺旋を形成し「ツナの思想」に行き着きます。
植物繊維を撚り合わせた糸をタテとヨコに交差し織りあげると「線」の集積が「面」になり、「布(ヌノ)」になります。布にはコトバを織物として捉える「アヤの発想」があります。                                                                    世界の人類史では時代区分を石や鉄などの「切る道具」によって分類します。石器時代・青銅器時代・鉄器時代です。
たしかに重要な道具であり劇的な時代の変化ですが、人類の歴史において繊維を束ね「撚る(ヨル)・織る(オル)」という工夫をした祖先の営みも重要だと思います。
考古学上の遺物である石器・青銅器・鉄器には確かに神聖・霊性・呪術性を感じます。
また、「結ぶ・巻く・纏う道具」の縄や布にも同じように神聖・霊性・呪術性があります。

 日本での時代区分は新石器時代の代わりに縄文時代が充てられています。
共認関係でツナがっていた時代に相応しい名称だと思います。
 


5.縄文時代の社会状況から

ここからは“ヤマト”は縄文由来の言葉であることを前提として、意味をより具体的に推論します。

“ト”とは集団原理に根ざした「人と人との繋がり」であり、「分け合う」ことによって
生まれる「共認充足」によって集団を統合してきたことをあらわします。

具体的には狩猟・漁労・採集による食物の均等分配が行われていたと考えます。

まず社会状況を設定します。農耕が始まる以前の時代が縄文時代ですから「狩猟・漁労・採集」が生活基盤である状況を設定します。
 
そこで数人の男たちが集団猟のために集まります。
円陣を組み、今回の猟における役割を決めます。
この参加者の関係性が前章で推論した

                A  と
              と      B
             H        と
            と          C
            G          と
             と        D
               F     と
                と  E

“ト”で結ばれた関係になります。私はこれを“トモ”の関係と推論します。

狩猟が始まり、参加者がそれぞれの役割をこなします。遂に猪を仕留めました。
そして皮を剥ぎ、内臓を取り出し、解体します。
では、肉はどのように分配されるのか考えます。
役割によって分量が変わるでしょうか?それとも、狩りに関わった人数分を均等に分配していたでしょうか?
私は“ト”で結ばれた仲間同士では均等に分配していたと予想します。
なぜなら、現代にも残っている習俗があるからです。
それはマタギ猟※1による獲物の分配です。
「マタギ勘定※2」と呼ばれ、狩猟の参加者全員に厳密に均等に分配するやり方になります。

※1マタギは平安時代に辿れる狩猟文化です。縄文時代の狩猟文化が残存していると仮定します。
※2ここでは詳しい内容は省きますが、興味深いですし、思想を感じます。

世界各地の狩猟採集民をフィールドワークしている文章を読むと
「狩猟採集民社会のおける食物分配 岸上伸啓」
食物分配(food sharing)には多様な形態があります。そして、高度な意味づけがあります。
狩猟採集民は蓄財を反社会的と見なす一方で分配に価値を置きます。
日本列島に住む縄文人も同じように厳密な食物の均等分配をしていたと考えられます。
このような均等分配は竪穴式住居が円環に並んだ集落(“ト”で結ばれたムラ)において、肉のみならず、漁撈、植物採集・栗の半栽培で得た食糧を均等分配していたのではないかと予想します。

そのため縄文時代には1万年間大きな争いがなく、           戦争が起こらないクニの基本理念が
“ヤマト(トで結ばれた関係性のルール)”であったと考えます。

次に脳内物質で気になることがありました。NHKの番組「ヒューマン」で知りました。
それはオキシトシンです。信頼のホルモンと呼ばれています。
一般的には動物同士では肉体的接触から分泌されます。しかし人間は肉体的
接触の無い状況、たとえば友人親類の結婚式会場でまわりが幸せな笑顔になっていると分泌されます。動物ではありえないそうです。
反対に闘争のホルモンがテストステロンです。
縄文人は人類の進歩のひとつであるオキシトシンが分泌される「分かち合う心」を持ち、
脳内でオキシトシンを分泌しやすい社会環境を作っていたのではないでしょうか。
この「分かち合う心」が “ヤマト”だと考えます。

ここで“和の心”と“ヤマト”の意味 を整理します。
漢字が持つ呪力“興”のイメージ操作から離れるため英語表記します。
(私の主観で選択していることを御理解の上、参照してください。)

“和の心”  
Friendship / Harmony / Peace / Total / Circle / Etiquette /
“ヤマト”
And /With/ Share /Connect / Relate / Link / Knot / Joint /
(“ト”は縄文時代のツナ=Ropeのイメージがあると考えます。)
以上のようにまとめてみました。

日本の国柄を“和”から“ヤマト”だと考え、再構築の土台を試みました。

次に縄文時代から弥生時代への社会状況を踏まえて、ヤマトとヒノモトを整理します。
“ヤマト”は現在の時代区分である“縄文時代”を表し、“ヒノモト”は弥生時代以降の
農耕社会を表すと考えます。
狩猟採集は自然の恵み・山の恵みを享受します。農耕は人為的に食糧を作り出します。そして天候に左右されます。
 狩猟採集社会から農耕社会への変化は、食糧を得るための重要な要素が変わるため、
信仰の対象が変わります。そしてカミの居場所も変わります。
信仰対象は「地母神信仰から太陽信仰へ」と変化します。
カミの居場所は「大地・山から太陽・.天候へ」と変化します。
以下にまとめます。


ヤマト → 山と共に暮らす →地母神信仰 → 狩猟漁撈採集社会 → 縄文時代 

                                   
ヒノモト → 日照により稲が育つ → 太陽信仰  → 農耕社会 → 弥生時代

 縄文時代は食糧確保が運次第であり、受動的です。稲作を導入した弥生時代から人為的に穀物を作り出し、食糧確保が安定しました。作物の出来不出来は日照時間が重要になります。世界のどの地域でも、飢えをなくすために拡がった農耕ですが、残念なことに
“定住”・“食糧保管(=蓄財)”をするようになった農耕社会は持つ者と持たざる者が生まれ、奪う者も現れました。蓄積された余剰生産物や農地をめぐって人類は戦争を起こすようになります。 

そのため“ヤマト”で繋がった食物分配の人間関係はすたれ、超越概念“ヒノモト”に取って代わられたのではないでしょうか?

この探求の前提である「“ヤマト”は縄文由来の言葉」としているのは、上記の考え方によっています。


6.漢字表記“大和”を探る。

 なぜ、“ヤマト”は“大和”と漢字表記されるようになったのでしょうか?
“大”を“ヤマ”と読むとしたら、4章で考察した“アヤ”から考えると、ヤマ(山)はオオ(大)きいですから、それほど違和感はありません。しかし
“和”を“ト”と読むことは日本人の誰もが不思議に思うことです。

それでは歴史の流れから漢字表記の変遷を調べます。
下記は「ヤマト・ヒノモト・ワに関する年表」になります。

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日本の歴史において「ヤマト」には下記の意味があるようです。
A.超越概念
B.道徳/理念
C.国号(国内・国外)
D.政治権力の名称
E.都の名称

なぜ“和”が選ばれたのか?このことを考えるためには重要な土台が必要です。それは
注目すべきは“ワ”ではなく“ト”です。

いままで考えられている「和が選ばれた理由」は
⦁ 聖徳太子「十七条憲法」 以和爲貴(和を以て貴しと為し)の表記から
⦁ 孔子「論語」 学而第一(第一巻)の十二
有子曰、禮之用和爲貴、先王之道斯爲美、小大由之、有所不行、知和而和、不以禮節之、亦不可行也。の表記から
⦁ 「倭」と「和」は中国語の発音が同じだから
等の理由で考えられていました。すべて関わりがあるように思われますが。

しかし“和”を“ト”と読むことの解読にはなりません。
そして、ヤマトの“ト”に漢字の“和”を当て嵌めた理由にもなりません。

 なぜ、“ト”に“和”を充てたのか私の考えを述べます。

中国語においては“和”の意味は“and”です。日本語にすると“~と~”になります。

そのため“和”を“ト”と読ませていると考えます。
中国語は「和」、「跟」、「与」それぞれ「~と」と訳すことができます。なかでも「和」がもっともふさわしいのです。汎用性が高く、日本語の“~と~”に最も近いと思われます。
→10秒でココロをつかむ中国語講座

すでにネット上に掲載されている論考を読むと、“和”の意味が“~と~”であることは
知られていました。
けれども“ヤマトのト”に“和”を当て嵌めた理由だと結論づけられることはいままでありませんでした。
この論考で調べてきたように、並列助詞“~と~”には重要な役割があります。

757年から漢字表記は“大和”になります。
601年に第一回の遣隋使が送られています。それから“大和”の表記が757年に正式決定されるまでの150年の間にヤマト朝廷は大陸の文化を摂取するために漢字の意味を蓄積しています。
当時の役人が“和”に“~と~(and)”の意味があることを知らないはずはありません。
これ以降、漢字表記は変更されずに主流となり、日本人の民族性を表す漢字が“和”になりました。

実に、弥生時代に“倭”(ワ)・(ヤマト)と表記されてから800年以上の歳月をかけて、日本人自らが納得する漢字表記に落ち着きました。
 
“和”は“~と~”を表す。これが漢字表記“大和”の答えです。



最後に結びのウタを詠みます。

クニは揺れ 
ヒノモトのタミ 
ツナがれば 
マトまり目覚め 
オオヤマトナル



あとがき
 私の友人は会社を辞め、被災された方々と“ツナがる”ためにNPO法人を立ち上げ岩手県釜石市の復興支援に向かいました。現在も仮設住宅の自治をお手伝いし、新しいまちづくりに邁進しています。
私自身は何も被災者の方々へお手伝いをできていませんが
現在の復興に向かい進んでいる状況と縄文時代の相互扶助の精神を結びつけることは、日本人の根源的に持っている分かち合う心を確認し、これからの国づくりのチカラになるのではないかと考えました。
 CMプランナーの箭内道彦さんが震災後1年経った報道番組で
「つながろう」を風化させてはならない。聞き飽きたと言われようが絶対、風化させてはならない。という趣旨の発言をされていました。
 常に新鮮さを求めて新しいコトバやフレーズを産み出す業界にいる箭内さんが「つながろう」に真剣に取り組んでいる姿に、このコトバの持つ根源的なチカラを感じました。
 ここでもう一度、「つながろう」に強度を持たせる事ができないか?そのように考えはじめました。

「つながろう」「絆」は未曾有の大震災から復興への意志として日本人の底から湧きあがってきたコトバです。それは祖先が土器に装飾したツナ紋様と関わりがあり、もうひとつは
相互扶助のツナがりを表す「ヤマト」と関わりあっていると考えられます。


平成二十四年

                              白井忠俊


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