私はママ友を名前で呼びたい
この夏、いくつかの夏祭りが戻ってきた。
保育園で、土曜日に親子参加で開催される夏祭り。未来の息子が通うであろう小学校のグラウンドに屋台が並ぶ夏祭り。近所の商店街がこの時だけ、人混みでぎゅうぎゅうに賑わう夏祭り。
息子は4歳。コロナ禍で行なわれた小規模なお祭りに去年、立ち寄ってみたことはあった(敷地内での人数制限があり、立ち寄るだけに炎天下で何時間も並んだ)けれど、ちゃんと参加するのは0歳以来だ。物心ついてからは、初めてのこと。
4年前の夏、まだコロナという言葉も知らないころ、私は生後半年にも満たない息子を抱っこ紐に入れ、汗だくになりながらも夫と屋台の味を満喫していた。
そんな日々を思い出しながら、私と夫は、甚平姿の息子を真ん中にして3人で手を繋ぎ、近所のお祭りに繰り出した。
話は逸れるけど、今年の夏は、子供用の甚平が早く売り切れたらしい。それまでは大量に出荷されていた子供用の甚平や浴衣も、コロナを境に、めっきり姿を消した。それがこの夏、久しぶりのお祭りムード。ということで、あるぶんはすぐに売れた。
保育園の夏祭りで、周りの友だちの中で息子だけが普段着だったことをさすがに反省し、バタバタと7月の終わりに買いに行ったら、もうほとんど売り切れていた。何軒か回り、唯一残っていたのは、ブランドもののジャストサイズだけ。ジャストサイズということは、たぶん来年は着られない。1万円を超える出費ともあって、かなり葛藤したものの、えいやと買った。楽しめるときに楽しまなきゃいけないことを、コロナ禍を経験したからこそ、私たちは知っているから。
さて、お祭りの屋台に並んでいたところ、息子が保育園でいちばん仲良くしている男の子と、その両親を発見。送り迎えで一緒になることも多いので、もちろん、親同士も顔見知りだ。お迎えがほぼ、パパ担当というのが、我が家との共通点。どこか親近感を感じていた。
休日に友達に会えてはしゃぎまくる子供たちに目を細めつつ、お祭りを楽しんだあと、二次会がてら我が家でお茶でも、ということになった。お祭りの会場と我が家が、目と鼻の先だったのだ。
ママ友、パパ友の定義を「息子きっかけ、子育てきっかけで仲良くなった友達」とするのであれば、私にはこれまで、ママ友やパパ友はいなかった。
だからこそ、誘うのには少々緊張したものの、子供たちがあまりに楽しそうで、もう少し一緒に遊ばせてやりたかったのと、「親同士も仲良くなりたい!」と思える居心地のよさが彼らにあったことにより、なんとか勇気を振り絞ることができたのだ。
「ママ友パパ友あるある」なのかもしれないが、私たちは基本的に、「〇〇くんのママ」「〇〇くんのパパ」など、それぞれの子供の名前をつけて呼び合った。子供たちが我が家にあるおもちゃで遊んでいる間、大人だけで話が盛り上がって、お茶会がいつのまにか飲み会になり、ワインボトルが空になっても、律儀にその、長いあだ名で呼び合っていた。
21時を過ぎ、子供たちの眠気にも限界が来たので、そろそろお開きにしようということになった。彼らの家は、我が家からだと大体徒歩で15分くらいだろうか。遅い時間になってしまったことを申し訳なく感じながらも、私の気持ちは高揚していた。アルコールのせいだけじゃない。なんだかとても、楽しかったのだ。
ありがたいことに、向こうも同じような気持ちでいてくれたようで、「連絡先を交換しましょう」ということになった。とりあえず代表でママ同士、ということで、LINEを登録しあったとき、私はハッとした。そこには、まったく知らない名前(息子の友達のママの、下の名前)があったからだ。そしておそらく、向こうの手元にも、私の名前があるはずだった。
ママ友、パパ友と呼べるほどではなかったけれど、もう数年は顔見知りで、さらに今、こんなに話が盛り上がっていて、それなのに、私たちはお互いの名前も知らなかったのだ。その事実に、私は驚いてしまった。そしてそれを、これまでまったく意識してこなかった自分自身にも。
当然だけれど、私たち親にも、それぞれ名前がある。「〇〇くんのママ」は、一種の肩書きではあるけれど、でもそれは、名前じゃない。自分たちにもちゃんと名前があることを、いくら子供たちといるときであっても、忘れるのは悲しいじゃないか、とふと思った。
それで私は、その後、御礼を交わし合ったLINEのやりとりで、さっそく相手のことを、下の名前にさん付けで呼んだ。すると相手も、同じようにしてくれた。くすぐったいけど、心地いい。
ママ同士、パパ同士もいいけれど、彼らとは人間同士、良いママ友、パパ友になれたらいいなと願っている。