適応障害 休職中ワーママ 徒然 中学校

一昨日は車をぶつけてしまい、15万円の請求書が来た。
自分が100%悪いし、自損しかなかったし、あてたときには親切なおじさんがむちゃくちゃ助けてくれたし、誰もけがもしていないし、自分があてたあとにすぐに修理に持っていける時間的な余裕もあったし…と不幸中の幸いだらけだけど、とても落ち込んだ。
そしてその夜に家のシャッターも壊れたっぽかった。家の補償使えるのかなあ。

そのせいで昨日もちょっと落ち込んだ気分で過ごしていた。
少なくともリハビリの外出に行く気にはなれず、魚をさばいて、あら汁を初めて作った。(これ、自分ながらすごいと思った。でもあら汁は翌日には生臭くなって、息子からは拒否された)

今日はヨガに行って、着物と部屋を整理して、少し心が清められた。
だから明日はリハビリ外出にまた行ってこようと思っている。

復職は12月中旬ごろ…と思っているのだけど、それができそうかはいまいち自信がないので、明日のリハビリ外出後に決めようかな。

●中学校
中学校は小学校と比較しても暗黒期である。
何せ3年間、ろくに友達を作れなかった。ここで衝撃的なのは小学校→中学校で持ち上がりなのに、ろくに話せるひとがいなかったということ。

3年間、話してくれるひと(Sちゃん)はいた。
Sちゃんはジャニーズが好きで、ディズニーさえ見たことがなくて、他の人からも同じグループに入れたいといわれていた。
いったい私と何を話せたのだろう? 当時の会話を全然覚えていない。だからなのか、高校入学以降で連絡をとったこともない。
彼女と同じクラスが3年間続いたのは、中学校の先生の配慮だったと私はみている。

塾に通っていたので、そこでは少しだけ話すひともいたのだけど、同じクラスにはならなかった。
でも塾のメンバーのほうがよほど気があったとみえて、塾では話していた覚えがあるし、彼女たちと同じクラスだったらよかったのになと今でも思っている。

強烈に覚えているのは中学校3年生のときに机に落書きをされていたこと。
マジックで書かれていて、自分の身にこんなことが起こるなんてとびっくりしたと同時にこんなことをされる自分が猛烈に恥ずかしかった。
でも内心の驚きを隠して、周りの人に「この席には誰が座っていたの?」と聞いて、その行動をしたであろう人物に直接「消すように」と談判しにいった。
いわゆる不良グループのひとりだったのだが、小2のときに私と仲が悪かった男子だった。談判後、乱雑に消した跡があったので、胸をなでおろしたのを覚えている。

この話を書いていて思い出したのはプレゼントの話だ。
たぶん中学校だったのかな、小学校だったのかな。
全然覚えていないけれど、仲良し同士では誕生日にプレゼントをあげあっていた。それがうらやましかったのかな。
私はわざわざひとりで街まで遊びにいって、100円か200円くらいのプレゼントをたくさん買った。メモ帳とかそういうものだっただろうけど、おこづかいの少ない私にとってはたいへんな出費だった。
これで誰かからプレゼントがもらえると思ったのだけれど、私は誰にも渡すことができなかった。

でも小学校のころにはプレゼント交換してたんだよね。
リンゴの風鈴やクリスマスのテディベアが入ったマグカップをもらったことがある(家に残っている)
お返しはしたのかな? なんか母に「お友達の誕生日にプレゼントを贈りたい」と交渉した覚えがあるのだけど、ぼんやりとしか覚えていない。
(大人になった今、私は親しい友人とプレゼント交換をしているのはここらへんに根っこがありそう)

そういえば全然修学旅行も運動会も思い出に出てこない。
私は運動が苦手で、運動会は本当に嫌いだったし、修学旅行も小学生では隣県、中学生では九州の北と本州にいったはずだ。
小学生の修学旅行で作ったオルゴールは自宅に残っているはずだが、これまた誰と作ったのか覚えていない。
中学校でも自転車で古い街をめぐったのだが、これも誰といったのやら。

中学校でも「いい子すぎて嫌な奴」というのは続行していて、中3のときかどこかで学校に飴を持ってきている子を先生にチクった覚えがある。
学級会か何かで「持ってこないように」とくぎをさされただけで終わったし、誰も何も言わなかったけど、私はクラス全員から責められているような気がした。(ただこれも記憶があいまいなので、もしかしたら誰かから何か言われたのかもね)
そのために楽しみにしていた課外授業はズル休みをした。

ズル休みは小中学校で時々行っていた。
当時の私は頭痛も発熱もほとんどない子供だったが、学校になじめているとはいいがたかったので、行きたくない日も当然たくさんあった。
だから朝に体調が悪いふりをした。
一度だけ「おなかがいたい」と嘘をついたのだが、お昼におやつが食べられなくなってしまった。だからそれ以降は気分が悪いか、頭痛を理由にしていた覚えがある。
今考えると仮病は母も心配するし、仮病とわかっても仕事を休まないといけないか判断が難しいから、自由に休める制度を母がとっていてくれたらなあ…と思う。
ただそうすると学校になじめていなかった私はずっと休んでいたかもしれないけど。

成績はよかった。
塾で勉強していたのもあるし、本の虫だったから国語の成績がよく、成績で「とてもとれないだろう」と設定されていた目標を超えて、よくおこづかいをもらっていた。
(このお金が本になったんだろうなあ)

部活には1年だけ入っていた。陸上部である。
大会にも出たけど、足が遅くでびりかびりから2番目だった。
大会会場は祖母の家から近く、祖母の家に泊まって行ったことがある。
祖母がはりきってお弁当を作ってくれた。牛肉の野菜巻きだった。ものすごく美味しかったことを覚えている。
スパイクも買ってもらったけど、結局1年で辞めたのは「ともだちが入っているから」という理由で入った部活で、「友達が辞めるから」だったと思う。
(思い出していくと、全般的に友達はいなかったけど、たぶんその場で話すくらいの人はいたのかなあ。彼女らの顔もうすぼんやりとは思い出せるのだが、その後の付き合いも全然ないし、なんか友達がいなかったという記憶がものすごく強いんだよなあ)
(なにせ近所の夏祭りに行きたいのに、誘うひとがいなかった。誘って断られるのも怖くて、母に嘘をついてでかけた覚えがある。一人の夏祭りはつまらなかった)
母にはそう説明すると納得してもらえないだろうから「部内のいじめがひどくて、見ているのがつらい」という話をした。
実際、部活のすぐ上の先輩は「自分たちの悪口を言われていた」という理由で後輩を体育館裏に呼び出すタイプだったので、まるっきり嘘ではない。彼女らの行動は恐怖だった。大人の今なら「人間はだれしも悪口くらい言われて当然だから、いちいちそんなことをするほうが愚か」だけど、学校だと違うよね。

兄がいた。
学校の講演会?か何かで「あなたの人生の分岐点はどこだったのですか?」と質問をしたので、私は「分岐点、分岐点」とからかわれていた。
兄も冴えない人間だったので、非常に恥ずかしく、学校内ですれちがったときに「ばーか!!!」となじった覚えがある。
兄は私よりもできた人間なので、その場では何も言い返さなかった。
ただ自宅に帰ったときに母から怒られた気がする。そのときに自分もやりすぎだったと思った。

小学校から好きな人がいて、卒業式の間近で告白した。
が、失恋した。私とは仲がいいつもりだったけど、他の子が好きだったとのこと。
「しばらく好きでいてもいい? メールしてもいい?」と聞いて「いいよ」と言われたので、しばらくメールしていた。けど何にもなかった。
でも卒業式にボタンだけはもらって、今も持っているんじゃないかなあ。

ここまで思い出してきたけど、中学校までは本当にろくな思い出がないなあ。
中学校時代の家庭の話は正直小学校と記憶が混同しているからなのか、思い出せないしなあ…。でもここまで思い出したのだから、何かこれから思い出せるかもしれない。

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