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「不在」と「幽霊」


 他者は「不在」として現れる。たとえば、量子計算機において「観察者」の不在は問題ではない。なるとすれば、それは心理学的問題であり、実存の希求でしかなく、ユーグリッド幾何学のような「反転性」に閉ざされる他ないだろう。だが本当に恐れるべきは、「形式化による内壊」ではない。むしろ、「不在」を発掘するような人物である。
 梶井基次郎は演奏会での「石化」以前、こう記している。

そうして黙って気を鎮めていると私は自分を捕えている強い感動が一種無感動に似た気持を伴って来ていることを感じた。煙草を出す。口にくわえる。そして静かにそれを吹かすのが、いかにも「何の変わったこともない」感じなのであった。
             (『器楽的幻覚』)

彼は「反ロマン」ではないが、かといって「観察者」ではない。たしかに、「強い感動」と「無感動」は等価であるが、しかしこれは「相対化」というよりも一種の「疎外」に他ならない。「言いようもないはかなさが私の胸に沁みて来た。私は涯もない孤独を思い浮かべていた」彼は「音楽」にも「観客」にも、そして「観察者」にも帰属することができないでいる。ここでは寧ろ、彼がオブジェクティブでありえない、つまり「非ロマン」な存在であることが問題なのだ
 日本のポストモダニズムは「不動点」——社会学的天皇制——から出発した。それはおよそ時代的なものであり、つまり他者の視点が抜けている。一義的な「覚り」はしかし、反ユートピアに帰結せざるおえない。「たとえ二本の平行線がやがて交わり、俺自身がそれを見たとしても、俺がこの目でたしかに見て、交わったよと言うとしても、やはり俺は認めないんだ」(『カラマーゾフの兄弟』)言うまでもなく、イワンの射程は幾何学および近代物理学にも向いている。
 イワンの態度は非接続的である。たとえば宮川淳は、マグリットの絵画分析を通して、次のように言う。

背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに?だが決して奥へ、あるいは底へではない。 
     (『紙片と眼差とのあいだに』)

 「表面的」は現世を媒介しない。無記号でなく、つまりけっして「不動点」として機能しない。言うなればそれは〈幽霊〉である。「未規定」でありながら、常に思考の〈内〉に存在し続ける。視線に晒されず、かといって「不在」として「存在」し続ける。わたしはこのことを悪いとは思わない。しかし良いとも思えない。
 数学者ゲーデルは、不完全性定理発表の後に発狂している。彼が「不在」であった証拠である。すなわち形式主義的-浪漫的でなかったことへの。わたしたちは彼の死をどう見ればよいか。言うなれば、全てはアイロニカルである。
 坂口安吾は「殉国心」と「個人的な戦い」を分けた。だが現在、特攻隊のような思考を辿る人間はいないだろう。なぜなら人々は「特異点」を求めはしないからだ。そして、幽霊は「不在」だと百も承知だからである。
 ……マグリットは飾られ、「観察者」は生き続ける。人間は愚かにも、別の人生を夢見、憧れる。そして偉大な文明を築き、また首を締めていく。しかし結局〈世界〉も、平行世界における「可能世界」に過ぎないはずである。もし、すべてを諦めるのであれば。


(二〇二四年 七月二八日)

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