他者は「不在」として現れる。たとえば、量子計算機において「観察者」の不在は問題ではない。なるとすれば、それは心理学的問題であり、実存の希求でしかなく、ユーグリッド幾何学のような「反転性」に閉ざされる他ないだろう。だが本当に恐れるべきは、「形式化による内壊」ではない。むしろ、「不在」を発掘するような人物である。 梶井基次郎は演奏会での「石化」以前、こう記している。 そうして黙って気を鎮めていると私は自分を捕えている強い感動が一種無感動に似た気持を伴って来ていることを感じた
【2024年 デ・キリコ展レポート】 東京都美術館でジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の回顧展が開催されている。日本としては約一〇年ぶりのキリコの個展だという。初期の「形而上絵画」から晩年の「新形而上絵画」まで、彫刻や挿絵・舞台衣装を含めた一〇〇点以上の作品が据えられ、彼の初期から晩年に至るまでの軌跡が細かく紹介されている。 数ヶ月前、ぼくも家族とともにこの個展に訪れた。当初はぶらぶらとショッピング街を歩く予定だったが、急遽、美術好きだという妻の友人の勧めで美
風の音がさらさらと詠うように流れている。多分、其れは来るべき静謐だった。 シンメトリーに開かれた花園の一本の道には、少年の影以外、見当たらなかった。 彼は日傘を閉じ、是迄の軌跡を手繰ろうとした。彼の背中は円柱模様が描かれたバロック様式の床面に佇み、頭は雪溶けの日のように凡やりとしていた。 変哲のない庭園だった。薔薇の芳醇さが鼻をつき、木々の騒めきを覆うように人々のクスクスとした噂声が周囲を満たした。 違うのは、少年の軀に乗りかかった鉛のような平静のみだった。
3 彼は早朝、花園を廻ることが日課となっていた。 快活な千の風の音や、天使のように笑う太陽を浴び、淋しげに土竜のように居座り、呆然とした目で朝を観るのであった。 少年の父母が所有する庭園は酷く美しいものだった。 彼は初めて此処を訪れた時、その広大さと造形美に目が眩み、一気に幼年期の夢想癖へと、少年を退行させた。 大量の花壇に集められた薔薇の群・・・・・・壁のように聳える葉々と虹を蔽いかくすフラワーロード......そして何より混沌とした花々を
2 少年は暗闇の只中、詩を書き続けていた。 サラサラと、次から次へと頁は捲られていった。 格調高く紅色に染め上げられたカアテン越しに観える鈴蘭・・施錠された木箱と酷く静かに佇む無音…彼はサワードウのように、遠い記憶鉱を取戻すべく奮闘していたのだ。 但し、少年の詩には季節感が哭かった。厭らしく独りよがりで、何より面白みに欠けた。 彼は英才教育に育った。 小動物のような無邪気さは過去となり、屈折した教養だけが彼の拠り所に変わった。 例の教師の授業は決ま
「これも過去のこととはなった。 僕は、今や、美をば崇めるわざくれも知る」 (ランボー 堀口大學訳『地獄の一季』) 1 物心ついた時、既に少年は玩具に囲まれていた。なぜあんなにも人形や遊具が置いてあったのか、その多くは少年の父と母が毎週毎に褒美として与えるもので、一部少年が子供心為すままに掻き集めたものもあった。 彼の父と母は少年の周囲を玩具で敷き詰めようと画策していた。彼らからすれば、子供は自由奔放であるべきであった。邸宅内を無邪気に走り回
今、時間は午後9時54分である。 けれどこの時間感覚は馬鹿らしい。 ––––現在の時間は9時55分。 時間は記述速度を守らない。 時間は記述に対して、美しさの溶解に対して とても鈍感だ。 そう、風化することを書いてみよう。 そうだ、僕は小学生の頃、人は死んだら風になるとばかり思っていた。 あぁ、これじゃ詩みたいだろう。 たまに鉤括弧の形を不快に思うことがある。 「黒歴史」という言葉に苛立つことがある。 他人の自分の人生に干渉するはずのない言葉。 それを誰かが「歴史」
電車に乗っていると、多くのサラリーマンが視界に入る。 鞄を持って、出勤する人。でも彼はなにやら貧血症のようだ。暗そうな顔をしている。皆、病んでいる。何かを皮肉りながら、同時に諦めている。 乗客全員、スマホに顔が吸い寄せられている。 異様な光景?いや、恐怖感なんてない。ちょっと面白いなと思う。でも何か違う。 何を皆見ているのだろう。Tiktokだろうか。僕は高校生だけど、もうZ世代にはついていけない。なんでも略してしまうのはその分身軽になるためだろうか。 「私」を「わ」と言
軽い言葉。 炭酸みたいにすぐ消える 体重のない言葉。 そんな言葉を、想像してみることがよくある。 文章を書こうとすると、どうしても何か硬い殻や枠のようなものにハマってしまう。この透明な膜の正体は一体なんだろう? 試しに文章をわかりやすくしてみる。 日常の出来事から入り、中身がありそうでない、いい感じの内容。「昨日は」から始めてみよう。具体的な場面も書いて、把握しやすいように。 でもまだ何か硬い。 「」を禁止する?漢字をやめて全てカタカナにしてみる? これ以上やると前
「芭蕉はいかなる社会体制とも自己を同一視せず、 『現世』一般の中での自己疎外を芸術家の運命と考えていた」 (加藤周一『日本文学史序説』) 松尾芭蕉は実に稀有な俳人である。 彼は江戸時代の新人気鋭の「点者(俳諧の批評家)」 として、多くの大名・愛好者と活発に意見を交え、多くの芸術的路線を開拓した。 しかしそれはある意味で「俳諧の限界」 を展望できる立場としても存在した。彼は農民の生まれであった。 確かに帯刀を許されてはいたが、そこに映るのは「俳壇」への違和感を隠すことの
最近、「論理的能力」の有無がよく生徒に向けて問われるようになりました。私が所属する科でも行なわれているとおり、「命題を客観的に証明する試み」です。論理的に物事を把握することで、リテラシーを兼ね備えた柔軟な思考をつくることが、第一の目的として掲げられています。また、このことは多様性を奨励する現代社会において、必要不可欠な能力であると、よく言われます。 しかし、私は倫理的であることとは、実は「生きにくくなること」ではないだろうかと思うのです。 理不尽が許容される社会において