[短編小説]百合④ 終
風の音がさらさらと詠うように流れている。多分、其れは来るべき静謐だった。
シンメトリーに開かれた花園の一本の道には、少年の影以外、見当たらなかった。
彼は日傘を閉じ、是迄の軌跡を手繰ろうとした。彼の背中は円柱模様が描かれたバロック様式の床面に佇み、頭は雪溶けの日のように凡やりとしていた。
変哲のない庭園だった。薔薇の芳醇さが鼻をつき、木々の騒めきを覆うように人々のクスクスとした噂声が周囲を満たした。
違うのは、少年の軀に乗りかかった鉛のような平静のみだった。彼は此処に一つの疎外を感じた。其れは彼の詩のように一点を視つめながらも孤立していた。
ふさふさと毛立つ茂みの音が聴覚を目覚めさせ、昼食を告げる教会の鐘が響いた。
少年は庭園を逆方向に廻り、食堂へと向かった。
『母は既に老伯爵の元から帰ってきていて、又彼の愚痴を言うだろう。父は寡黙な方だから......付き合わされることになるな』
彼はこのことを警戒して、近くの小間使いに熱があると伝えて欲しいと頼んだ。
女は快く頷いた。
食事を終え、部屋へ向かう途中、例の教師と擦れ違った。擦れ違いざまにこう言った。
「あぁ何処行っていらしたのですか!待っていたんですよ。特別授業だと昨日あんなにも伝えたではありませんか......。午前の配布プリントは貴方の机に閉まっておきましたので、午後はいざ励んでください。サボることのないように。
••••••いいですか。 貴方は帰属先のない哀
れな渡鳥なのですから」
「わかっていますよ。 で、今日の講義は何についてだったのですか」
教師は生徒に用件を聞かせなければ我慢ならない性分だった。男は生徒の表情をじろじろと視姦しながら、溜息交じりに言った。
「ローマ帝国23代目当主ヘリオガバルスについてです」
部屋へ着き、少年は窓際のカアテンを開き、邸宅を飲み込まんとしている広大な庭園を眺めた。
其の庭園の先には、細長い鉄鋼柵が張り巡らされ、夜会を待つ貴族達の姿が見えた。彼らは門が開かれるのを今か今かと待っているのだ。
少年は庭園の噴水に座る女について考えていた。
『彼女は少女だっただろうか?あれは僕自身の陳腐な幻想だったのだろうか?』
『ともすれば僕は狂ってしまったのかもしれない。とうとう天使の叫びは一人の少年を貫いたのだ』
心臓の騒めきは何時になっても治らなかった。洋燈を消し、ベットに顔を埋めた。
彼は己の手に馴染まない、不思議な静謐を何度も反芻し、女の顔を想い出した。
しかし一向に億ひ出されるのは、女の顔ではなく、行方のない静謐だけだった。
扉を叩く音がし、小間使いが顔を出した。夕食を運びに来てくれたのだ。少年は微笑すると、彼女の不均衡な顔から目を背けるように、食事を受け取り、扉を閉めた。彼は眠ろうと想った。
.......庭園の奥の静謐は少年にとって耐えられるものでは決してなかった。少年の感受性が瞽な玩具であるように、人の生きる世も天の玩具に相違ない。
考えてみれば、私達の思い描く子供の戯れというのは、至極滑稽なものであったかもしれない。
少年を勉学へと監禁した母親も、気狂いのように、庭園を徘徊していた美女も、私は少年が考えついた、甚だ恐ろしい妄想であるように想う。
いや、それは幻想ではない。
全ては彼の個人的な体験なのだ。
貴族社会ですら、彼のフィルムのような身体には何の影響も及ぼさなかった。
もしかすれば、少年は未だあの広々とした野原で、母親のための花冠を仕立てているに違いないのだ。
そう、酩酊の中に沈む少年にとって一抹の官能は、外界の敵意そのものだったのである。
庭園の門は開かれ、貴族達が花壇が並列された一本道を歩き出していた。
彼は多くの人間が思い込むであろう幼年期の輝きを要約し、一つの思想、一つの引力として結晶させようとしていた。
其れはある種の自殺、噴水に座る女の冷たい顔のように温度のない少年期の始まりだったのだ。
…………皆が寝静った夜、少年は独り庭園に佇む自分を想像し、そして或る詩人の追想を憶ひ出した。
『僕はきっと夏の黎明を抱きしめた。
宮閣の奥ではまだ何者も動かなかった。
水は死んでいた。
陰の畠は森の道を離れなかった』
風の音に隠れた天使の呻き声を、少年は聞いた。
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