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絶対に押すなよ
2023年7月11日(火)朝の6:00になりました。
押すなよ!絶対に押すなよ!
どうも、高倉大希です。
「押すな」と言われたら、押せ。
お笑いにおける不文律のひとつです。
「押すな」と言っているのに、押される。
この落差で、笑いが生まれるというわけです。
すなわち「緊張の緩和」がすべての根本なんですわ。はじめグーッと息を詰めててパーッとはき出す。グーッが「緊張」でパーッが「緩和」です。
当然「押すな」と言っている側も、押されることを期待しています。
「押すなと言っているのに押す」という落差をつくるということが、その場における共通の目的として認識されているのです。
だから、「押すな」を字義どおりに捉えてはなりません。
「押してほしくないのに押されてかわいそうだ」という意見は、まったく的を射ていません。
むしろ、「かわいそうだ」という方がかわいそうなくらいです。
人は「命」を軽く扱おうとするとき、それをごまかすために「ことば」を重くするんです。
言語は、あくまでも記号です。
その場におけるルールそのものではありません。
ルールを構築するために用いられる手段のひとつでしかないわけです。
残念ながら、辞書にその意味が表記されることはありません。
辞書のみを信仰するならば、「押すなよ」は「押してほしくないという感情を表す」ということにしかならないのです。
その場に共通して目指すべきルールがあれば、辞書にかかれた意味なんて、がらりと変わってしまいます。
なんならむしろ、辞書にかかれたその意味が、前フリとして機能することになるわけです。
西野も「芥川賞の会見はずっとおもろかった。あんな芸人いなかった。すごいボケてる。究極のボケ。小説書いて芥川賞取るとか、芸人のボケとしては100点満点」と絶賛していた。
「押すな」と言われたら、押せ。
言語の役割をふり返る革新的な発明でした。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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