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存在讃歌
只今をもって「万華鏡」第15回の投稿を締め切ります。
次回予告は、明日18:00に投稿する「あとがき」にて。
どうも、高倉大希です。
偏った模範に囲まれて
生き方の模範として扱うには、いくらなんでも偏りすぎちゃあいないかい。親や学校の先生に対して、思っていたことのひとつです。大人になればなるほど、親や学校の先生がいかに一例だったかを思い知ります。
子どものころは、何せサンプルがありません。親や学校の先生を、模範として扱うしかないような環境で暮らしています。当人たちも、きっとそれがわかっています。だからこそ、より模範であろうと努めます。
存在そのものが証明になる
そんな狭い世界を拡張してくれたのは、小説や音楽などの、いわゆる作品たちでした。こんなことを書いてもいいのか、とか。こんなことを歌ってもいいのか、とか。思春期の少年にとっては、衝撃の連続でした。
作品の向こうにいる人たちが、生き方のサンプルとして存在してくれていたわけです。当人たちにそのつもりがなかったとしても、自動的に「こういう思想をもっていても生きていけるぞ」と証明してくれていたのです。
生死の境を教えてくれる
作品の向こうの人たちは、生死の境も自ずと教えてくれました。芥川は死に、太宰も死に、カート・コバーンも死に、志村正彦も死にました。一方で、漱石は生き、サリンジャーも生き、トム・ヨークも生き、甲本ヒロトも生きました。
ここまでは大丈夫、ここから先は危険。そんな境を、これでもかというくらいに提示してくれているわけです。そんなところまで行っても大丈夫なんだ、という嬉しさがあり。同時に、それでも限界はあるんだなという悲しさもありました。
多様性というリスクヘッジ
多様性を容認すればするほど、集団としての意思決定は遅くなります。逆に、多様性を拒絶すればするほど、排除される人々が生まれます。多様性は、リスクヘッジです。みんなでまとめて死なないようにするための、リスクヘッジです。
小説や音楽も、同様です。1冊読んだところで、1曲聴いたところで、どうしようもありません。親や学校の先生が、特定の作家やミュージシャンに変わっただけなら、結局はおなじです。複数の作品に触れて、ようやく話がはじまります。
発信しようそうしよう
そういう意味でも、あらゆる存在には価値があります。存在そのものが、「これでも生きていけるぞ」という証明になるからです。誰かのためになろうだなんて、大層なことを考える必要はありません。存在している。それだけでよいのです。
欲を言うなら、発信してほしいなと思います。多様性の一端として、見えやすくなるからです。だから、note はよい場所です。いろいろな声が聞こえてきます。ただし、そんな note もまた、偏った一例だということを忘れてはなりません。
存在におめでとう
あなたは社会の歯車に過ぎない、とか。あなたは有象無象のひとりに過ぎない、とか。このような言葉が、随分と悪い意味で捉えられがちです。「社会の歯車」や「有象無象のひとり」を、馬鹿にしてはなりません。
くり返しになりますが、存在していることそのものに大きな価値があるのです。これは、慰めでも、気休めでも、ポエムでもありません。紛れもない事実です。存在におめでとう。せっかくなので、声を上げてください。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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