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「終のすみか」は日本?イタリア?どっちにする?

こんにちは Minori です。
イタリアに来て丸4年。たった4年とはいえ,振り返れば,実にいろいろなことがあった。犬の散歩と買い物以外,ほとんど家から出ない私だが,4年も暮らしていると,イタリア在住の日本の方と,知り合う機会は自然とやってくるもので,数人の方とお付き合いさせていただいている。ときどき会って話をすると,決まって出てくるのが「将来はどうするの?」という話題。そう,将来は日本に戻るのか,あるいは,イタリアに骨を埋めるのか。国際結婚をして,相手国に住んでいる日本人は,おそらく,ほぼ100%,毎日この問いを,自問自答しておられるのではないだろうか。

数少ないながらも,私がここで知り合った日本人は,一人を除いて,イタリア人男性と結婚した日本人女性なので,旦那がイタリア人,妻が日本人という前提でお話をしたい。

私はというと,ヴァレとは日本で知り合い,日本で結婚したパターンだが,私がイタリアで知り合った方々は,若い頃,単身でイタリアに来て,イタリアで生活しているうちに,イタリア人と知り合い結婚。そのまま,イタリア在住となっているケースがほとんど。したがって,ご主人は日本語が,ほぼ0状態。自身のイタリア語の上達のためには,旦那が日本語を喋らないというのは,絶対的にいい。だって,ヴァレが日本語を話すおかげで,4年もイタリアにいるのに,私のイタリア語は,ほとんど上達していないのだから。ただ,将来的に日本に戻ることを考えたら,日本語が0である旦那とともに,日本に戻ることが果たしてできるのかというと,これがかなり厚い壁になることは間違いない。イタリアで,イタリア人と結婚し,イタリアに住むことを決めた時点で,イタリアに骨を埋める覚悟を,ある程度されているとは思うが,年を重ねるとともに,将来への不安がつきまとってくる。

長年,イタリアに住んでいる方が,皆さん口を揃えてこぼすのは,イタリアの病院事情の悪さ,在留資格などの手続きが,スムーズにいかないことへの不満が圧倒的。おなじみ Mime さんの動画でも,その点を声高らかに訴えておられる。

日常生活に困らない程度のイタリア語が話せるようになり,穏やかな生活を送っていても,病気やケガをしたり,在留許可証の手続きをする場面で,「ああ,やっぱり日本に戻りたいな」という思いが,ふと頭をよぎるんだとか。何年か前,サッカーで息子が腕の骨を折った。ヴァレが,救急病院に連れて行ったのだが,治療してもらえるまで,なんと6時間放置。コロナ禍でヴァレは息子に付き添えず,6時間以上,息子が病院から出てくるまで駐車場で待ち続け,二人が帰ってきたのは夜の11時をすでに回っていたと記憶している。全くもって「救急」とは名ばかりである。瀕死の状態なら,完全に死んでいるよ(笑)そんな,イタリアの病院事情に「これは,絶対,病気になれないっ!絶対にケガできない!」と,強く心に誓った覚えがある。

さて,我が家は今度どうするのかというと,息子が日本の大学への進学を希望していることもあり,ヴァレはそそくさと日本帰国計画を立て始めた。外国人であるヴァレにとっても,日本はよっぽど居心地がよかったらしい。それもそのはず,イタリアで,何か一つ書類を取得しようと思ったら,相当の労力が必要だ。段取りの悪さ,受け付ける人の無責任さに相まって,何度通っても,手続きが一向に前に進む気がしないときに感じる喪失感と苛立ち。私と息子(特に私)のために,諸手続きを代行してるヴァレは,すっかり嫌気が差したようだ。

日本の大学受験の願書には,当然ながら,イタリアの高校が発行する卒業証明書,成績証明書の貼付が必須。息子が Maturità(高校卒業試験)に合格したのは,かれこれ一ヶ月前。すぐに高校側に依頼したが, まだ手元に届かない。その間,何度ヴァレは高校に行ったのだろう。約束してから行っているはずなのに,「誰もいなかった…。」「玄関が閉まってた…。」と,ドタキャン食らって帰ってくる。ま,間に合うのか?😅

まあ,こういう事がたびたび重なると,大抵のことが滞りなくスムーズに運ぶ日本っていうのは,なんと素晴らしい国かと思ってしまうのも当然だ。そう,日本は実に, Tutto sistematoTutto regolare なのである。しかし,私は,ここにこそ「不安」を感じてしまうのだ。この Tutto sistematoTutto regolare の裏側では,どれだけの犠牲と努力が払われているのだろう。些細なことで,お客に平謝りしている店員を見ると,不憫でならないし,些細なことで文句をつけているお客を見ると,悲しい気持ちになってくる。いや,人のことだけを責めてはいけない。私だって例外じゃない。日本に戻るや否や,ちょっとレジを待たされただけで,ちょっと店員に邪険に扱われただけで,気づけば苛ついている自分がいる。

電車はおろかバスまでが,秒単位できっかり発着し,ひとたび遅延が発生すると,駅員は平謝りし,何度も何度も大音響でアナウンスが繰り返される。スーパーは当然ながら,郵便局,ガソリンスタンド,役所や銀行にいたるまで,ほぼどこに行っても「いらっしゃいませ」と出迎えられる。水はタダで提供され,なんならご飯もおかわり自由で,挙句の果てにおしぼりまでついてくる日本の飲食店。タクシーのドアは自動で開き,自動で閉まる。これが当たり前でない社会で暮らすと,日本のこの「完璧さ」が,いかに「過剰」であることを痛感する。一見,居心地がよさそうだが,本当にそうだろうか。ここまで「される」「する」必要があるのだろうか。相手に対して「完璧さ」を求めるということは,翻って,自分にも同様の「完璧さ」が求められているということになっているのではないだろうか。

自分が常に,お客の側であればいいのだが,逆に,サービス提供者の立場になると大変だ。日本のスーパーでレジ係をしていたときのこと。レジ袋を辞退したときに付与する1ポイントをつけ忘れただけで,劣化のごとく私を怒鳴りつけた客,レジに通した品物を別のカゴにいれる際,入れ方が気に入らないと,鬼の形相で睨んできた客の顔が蘇ってくる。スーパー側からは,バックヤードで挨拶の練習を毎日させられたし,レジ通しのスピードをランキング化され,正確さを求めるだけでなく1秒でも早く「客をさばく」こと,「非の打ち所のない完璧さ」を強要された。配膳の仕事をしていたときのこと。いろんな料亭やレストランに派遣されたが,そこでの「いじめ」は,相当なものだった。上下関係の厳しさ,足の引っ張り合い等々。派遣先に気に入られようなものなら,同じ配膳係の諸先輩方に「天狗になっとう!」と,陰口を叩かれた。後から入ってきた者が,先にいる者を差し置いて,いい思いをすることに我慢がならないらしい。

お客と店員が対等な立場のイタリアでは,こんなことはあり得ない。レジ係は座り,自分のペースで,のんびりと商品をレジに通し,後ろに何人お客が待っていようが,慌てる素振りひとつない。レジに通した商品を,放り投げるやからもいる。待たされているお客の方も,細かいお金をひとつずつゆ〜っくり出すご老人がいようが,レジ係が知り合いの客と世間話を始めようが,イライラして文句をつける人もいない。もちろん,イタリア人だって,これをよしとしているわけではない。雑談には,病院や役所を含め全般的なサービスの悪さ,予告なく行われるストライキ,停電や断水に対する不満が,しばしば話題に上るのだから。

とはいえ,みんながみんなこうだから,しょうがない,こんなもんだと半ば諦め,「完璧さ」を過剰に要求することはしない。なぜなら,相手に完璧さを求めないということは逆に,自分も完璧にしなくても許されるということだからだ。この「適当なゆるゆるさ加減」は,不便な反面,かなり居心地がいいのである。

こんなことを言うと,「イタリアで働いたことがないから,そう言えるのよ」と,イタリアでお仕事をされている方に一喝されるだろう。事実,こんな調子だから,イタリア人と仕事をしておられる方の苦労は計り知れない。この日本人の完璧さが,功を奏することが多いのも確かだ。とはいえ,窮屈であることは間違いない。こうあるべき,こうでなきゃだめだと,無言の圧力をかけられる社会に戻ること,それと同時に,無言の圧力をかける私に戻ってしまうことに,私はとても不安を感じている。

さて,他のイタリア在住の日本の奥様方はどう考えているのだろう,というところに思いを馳せてみる。ご本人たちには了解を得ていないので,当たり障りのない程度に,ご紹介していきたい。

イタリア人と結婚し,イタリアに20年以上住んでおられる方が,何人かいる。一人は,半年はイタリア,半年は日本という,なんとも羨ましい生活を送っている。まさに,これが理想中の理想。日本にはすでに実家はなく,日本での滞在先は,毎回,マンスリーマンションを借りているとのこと。家賃は一ヶ月約30万円。半年で,180万円ってことだから,彼女は富裕層であることは間違いない。

一人は,こちらも日本にはすでに実家はないとのこと。ご兄弟が健在らしいが,彼女は日本に戻るつもりはないという。成人した子供も2人いるし,なんとか生きていけるだろうと言っていた。ただ,10年という有効期限付きとなってしまった滞在許可証を,10年ごとに取りに行き続けられるだろうかと,心配していた。「次の更新のときは,私,80なんだけど,6時間も立ちっぱなしで待ってられるかなあ」と,こぼしている。

一人は,ヴァレの叔父の奥さん。彼女も,人生のうちの大部分をイタリアで過ごしている。ご主人も彼女も,かなりのご高齢。お子さんはおられない。自宅に何度かお招きいただいたが,夫婦ふたりで悠々自適な生活を送っている。改めて聞いたことはないが,彼女もおそらくイタリアを,終の棲家としていると思う。

一人は,一度しか会っていないので,詳しくは分からないが,イタリア人のご主人とは,随分前に離婚されたそうだ。この方はまだ実家のご両親は健在だと言っていたと記憶しているが,離婚後もイタリアに住んでいる。確か,イタリアで生まれ育ったお子さんのことを考えて,イタリアに住み続けていると言っていた。

30年近くイタリアで暮らしている方々は,すでにイタリアに生活の拠点が確立されているため,終の棲家をイタリアに決めているようだ。次は,イタリアに住んで,まだ10年未満という方々をご紹介していこう。

一番仲のよいMちゃん。彼女に初めて会ったのは,一人目のお子さんがお腹にいたときだ。そんなMちゃんも,二人目を出産し,二人目の子がすでに1歳半を迎えようとしている。年下ながらも,彼女の「たくましさ」には感心させられる。イタリアで子供を出産するなんて,私には考えられない。ほぼ私と同時期にイタリアに来たと言っていた。彼女はご主人にも,ご主人の家族にも恵まれ,傍から見ても充実した幸せな生活を送っている。とはいえ,年に一度の日本帰省から戻ると,「イタリアに帰りたくなかった」と,ぽそっとこぼす。お母さんがいて,楽だからというのが理由だそうだ。将来のことは,まだ考えられないと言っていた。

一人は,こちらはすでに日本にお帰りになった。お子さんが不自由な問題を抱えてて,彼の子育てをするなら,ホームグラウンドである日本でしたいと決断したのだ。ただ,ご主人が,まだ一人イタリアに残っている。ご主人は日本語が全く話せないが,イタリアのもろもろを片付けたら,ご主人も日本に行くことを承諾したそうだ。

人生いろいろ,選択も決断も人それぞれ。「終の棲家はイタリア?日本?」というのは,難しい選択だが,イタリアか日本かという選択に悩めること自体が,「贅沢な悩み」であるとも言えるし,国際結婚してなきゃ,こんなことで悩まずに済んだのにという思いもある。いずれにせよ,Aという道を選んでも,Bという道を選んでも,人は必ず後悔する。それなら,自分が選択した道を,最善の道にすることに努めよう。フランスの作家で哲学者であるジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)は,こう言った。

人は自分が選んだ道を選び続けることで、自分の存在を肯定する。

イタリアの諺にもこんなものがある。

Chi non risica, non rosica.
リスクを取らなければ,成果は得られない。

どちらを選んだとしても,何を選んだとしても,前向きに進んでいきたい。

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日本の皆様にイタリア語を教えて30年。
日本人がつまづきやすい文法,
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イタリア語100の疑問
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