その燈(ともし火)は燃え続ける
「店を閉めることにしたよ」
マスターは電話口でそう言った。
来るべき日が来たんやなあ・・・。僕は目を閉じ、言葉にならない感情が押し寄せるのを感じた。
先日、僕が30年通ったバーが閉店した。
マスターが大病を患い、カウンターにもう立てなくなったからだ。
僕がこのバーに通い出したのはちょうど20歳の時だった。美味い酒とマスターの厳しくも人情あふれる人柄に惹かれて、当時は3日と空けずに店に通った。
学生の頃は親友や後輩とここでよく飲んだ。若者らしく青臭く語り合った。僕の追いコンの時は朝まで貸し切った。
大学を卒業し親友が大阪を去った後は、僕は1人でこのバーに足繁く通った。店の常連さん達と仲良くなり、毎晩のように映画や音楽や政治や歴史やいろんなことを語り合った。21時ごろ、このバーに行けば大抵は誰かに会えた。少し背伸びをして、世界が広がったのが楽しかった。
僕は何度か長期的に大阪を離れたが、この街に帰って来るとまず、このバーの止まり木に腰掛けビールを飲んだ。そうすると「ああ、帰ってきたんや」と、とてもホッとした気持ちになった。マスターはまるで帰省した息子のように僕を迎えてくれた。
思えば妻との初めてのデートもこの店だったし、プロポーズもここでしたし、結婚式の2次会でも使わせてもらった。
このバーは僕の人生の一部だった。
やがて時の経過と共に古参の酔っ払いたちは姿を消し、気がついたら僕が最も古い常連客の1人になっていた。
コロナを境にマスターも店も一気に衰えた。当時は毎晩満席だった店も、僕1人しかカウンターにいない夜が何度もあった。それでもマスターは意地で店を開け続けた。
「そろそろ潮時かねえ?」そんな夜、マスターはよく、そう言っていた。
「いやいや、まだまだ頑張ってもらわんと。みんな行く場所を無くすよ」と言って僕はマスターを励ました。少なくとも、カウンターに立っている間はマスターはしゃんとして元気そうに見えた。
しかし、いつしか病がマスターの体を静かに蝕んでいたのだった。
ここ数年、僕は開店前にそのバーに行くことが多かった。まだ他に客がいない店が好きだったからだ。「勝手にやっといて」と、マスターは特に文句も言わずに受け入れてくれた。
店の空気は綺麗で、スピーカーからはジャズが心地よい音量で流れている。
ビル・エバンス、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン。そんな時間がたまらなく好きだった。
カウンターのいつもの席に腰掛け、よく冷えたビールをグラスに注ぐ。一気にビールを喉に流し込み、2杯目は決まってジントニック。そして葉巻に火を点けると、ようやく人心地がついたものだった。あとは惰性でバーボンかシングルモルトを飲んだ。
仕事で疲れた果てた時、僕は必ずここに来た。あまりに理不尽な目に遭った時。人の心の闇や毒に触れ、自分の内臓にドス黒い液体を無理矢理流し込まれたような気分になった時。自分の無力さにあまりに悔しくて涙すら出なかった時。そんな日は真っ直ぐに家に帰りたくなかった。きっとひどい顔をしてただろうし、そんな顔を妻に見せたくなかった。
僕は昔みたいに誰かとここで話したいとは思わなかった。むしろ1人で静かに飲みたかった。誰にも邪魔されずに。側から見たら、気難しそうな中年男性に見えたかもしれない。
そんな僕をマスターは受け入れ続けてくれた。「今日は飲み過ぎやで」と言いながらも、グラスにウイスキーを注いでくれた。特に「どうしたの?」と尋ねてこなかった。おそらく何も言わずとも、マスターは僕のことをわかっていたのだと思う。まるで家族のようだった。その優しさが僕を救ってくれていた。
実際、マスターは事情があり家族とは会えなかったし、僕も早くに父を亡くしていたので、僕たちはお互いを補完するような拡大家族だったかもしれない。
僕はどんな酷かった1日でも、ここで何杯か飲めば少し元気になれた。とことん自分と語りあい、然るべき結論を出して家路についた。
僕にはそんな場所が必要だったのだ。
僕は幸運だった。
本当に辛い時。苦しい時。受け入れてくれる場所があったのだから。
感謝の気持ちでいっぱいだ。
*
店を閉める最後の夜。歴代の常連客が集まり、ささやかなお別れ会が開かれた。僕の親友も遠方から駆けつけてくれた。
マスターは長時間立っていられないので、僕が代わりにカウンターに立ちドリンクを作った。意外と僕が作るジントニックやハイボールは好評だった。
まるで全盛期のような夜だった。あの頃のように、みんなの笑い声とウイスキーの香りとタバコの煙でバーは満ち満ちていた。しんみりとする間もなく、慌ただしくも賑やかで楽しい時間は過ぎていった。
感傷に耽る暇もなかった。けど、きっとそれで良かったのだ。
笑顔でお別れすることができたのだから。
*
そのバーの名は「ガス燈」。
文字通り、闇夜に迷う大人たちの行き場のない魂を救うを燈(ともしび)だった。
暗く寒い夜。マスターが作ってくれた一杯の酒が、冷え切った僕たちの心を温めてくれた。
そう、それは僕たちの孤独な魂にそっと火を灯してくれたのだ。
そして少しばかりの元気と勇気をもらい、僕たちは明日に向かった。
マスターはよく言っていた。
「今を悔いなく、楽しく生きることやで!」
今はもう、その場所は無い。
けど、僕たちの心にガス燈のともし火は燃え続ける。
ずっと。
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