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神様の“行政代執行”?

むかしから何でもじぶんでできる良い子でした。問題をおこすこともなく、反抗期をむかえることもなく、親に迷惑をかけずに生きてきたように思います。その反面、親や人にどう甘えていいのかわからず、また何も言わなければほったらかしの放任な両親だったので、精いっぱいの背伸びのなかで(じぶんが考えうる選択肢のなかで)ひとりで進路や職、留学などを決めてなんとかこれまで生きてきました。

抗うつ剤で知る、平和

ところが、34歳のときにぽきっと折れ適応障害と診断、翌年にはまた悪くなり、うつ状態との診断を受けます。最初の治療で「ドグマチール」という抗うつ剤を処方されますが、はじめて飲んだこの抗うつ剤で、“人ってこんなに幸せで平和でいいんだね~”と、生まれてはじめてしみじみと感じてしまいました。つまり、それくらいわたしのこれまでの人生は、幸せでもなく平和でもなく、じぶんにとって苦しいものだったのかもしれないなと気づいたのです。

激動の人生

幼いころから、自信のある強気なじぶんと引っ込み思案なじぶんとが共存する複雑で繊細な子どもでした。思春期のころ、住み慣れた大阪を離れ横浜に引っ越し1年を過ごしますが、関西弁がまだ浸透していなかった時代です。少しの訛りでも笑われ、傷ついたわたしはあまり喋らなくなり大阪時代のはつらつとした人格は抑圧されました。1年後、イギリスへ移住。すこし英会話を習っておいたとはいえ、言語や文化の全くちがう現地校へ放り込まれたことは、わたしが思うよりも大きなストレスとなっていた気がします。心をひらくことができず、英語を話すことができないまま帰国することになります。

3年弱で日本へ帰国しますが、高校生の2学期から編入という微妙なタイミング。帰国子女として珍しがられ「英語喋ってみて~」のコールには、何とも言えないストレスを感じたものです。また英語をちゃんと話せないという後悔から、じぶんの英国での体験を肯定できませんでした。唯一、自信のあった「絵を描くこと」で大学を目指しますが、第一志望・第二志望と玉砕したため両親に対しておおきな罪悪感を抱えます。

芸術家になるぞ!と、その道をまい進する勇気も出ず、かと言って世間一般の就職活動も(どういう理由でか)できず、すべりこみで何とか就職しますが、これがいけなかったようにも思います。「絵が好き」という理由でグラフィックデザイナーの仕事をはじめるわけですが、デザイナーと画家、社会人と芸術家の両立は、とてもむずかしいことだったと言わせてください。

本来 芸術家であるわたしは、いま思い返せば、社会人ならできてあたりまえのことにまずストレスを感じていました。けれども、若さのエネルギーで、キャリアを積んでいくぞと勉強や転職を繰り返し、結果的に振り返ればおなじ職場で仕事をつづけられない体質が浮き彫りになりました。社会人になって数年の時点ですでに軽度のうつ状態だったのだろうと推測しています。

好きなこと(ほんとうにしたいこと)を抑え、世間的に選ぶべきだと言われる道を行った結果、頭では理解していても感情の部分で抑えきれなくなりました。ここではない。漠然と感じる「ここではない」。この苦しさから逃れるために決めたのが、留学です。

でも、すでにこのとき、判断力が落ちていた(他人に助言を仰げないので判断力がそもそも未熟だった?)ため、留学生活中も経済面で苦しくなり食費を切り詰めたりする生活をしていました。本音は“逃れるために”やって来た英国でしたが、“芸術家の世界スタンダードに立つのだ”と、ここでも大真面目にスローガンを掲げ、じぶんを追い込んでしまいました。

留学が終わり本格的に芸術家を軸として活動をはじめますが、比重は落としたとは言えデザイナーのお仕事をつづけていましたので、その両方のバランスをとっているうちに先述のぽきっと折れる瞬間に至ります。

生きづらさ

このように書いてみたのは、ネガティブな側面から見たわたしの人生です。幼いころからわたしは、自信のある強気なじぶんと引っ込み思案なじぶんとが共存する子どもでした。社会人になったあたりから、ちいさなストレスや課題は乗りこえてなんぼのもの、これを乗りこえればキャリアが(順調に)積めるんだと、ちいさなことに怯えている方のじぶんに鞭打って蓋をして、気づかないふりをしてきたようです。わたし自身も見てこなかったですし、それを他人や両親にさえも見せてきませんでした。

あの日、両親のまえで泣き喚いた日(参照:治療のステップに上るまでの、障害。)、子どものようなわたしが出てきました。引っ込み思案で、怯えている方のわたしです。入院費と手術の費用をじぶんでまかなえるかどうかを考えていたはずなのに、「もう普通に働けないねん」「わたし向いてないねん」「電話取るのも電車乗るのも朝起きるのも、無理してるねん」と泣きました。

新しいこと、初めての人、環境の変化、責任。同じことをするために、朝、同じ場所へ出勤するというルーティーン。そういう些細なストレスに内心ビビりまくり、手や声が微かに震えるのを堪えながら、プレッシャーとともに眠り、起きる、もう片方のわたし。なのに、父親でさえわたしを「なんでもやれる強い子」だと思ってた。

はた目には誰とでもコミュニケーションがとれて、一般的な事柄はそつなくこなし、なんでもひとりでできるわたし。そこそこ器用なので、教えられたことは必要以上にできるようになるけれど、決してそれが自分に合っているわけではないのかもしれません。許容できる、というだけのことで、だから、心に齟齬が生まれるのかもしれませんね。それが、生きづらさを感じる原因だったのかもと思っています。

神様の采配

うつ状態と診断されてから、この生きづらさを解消するために臨床心理士の先生と一緒にじぶんの心に向き合ってきました。詳しいことはまた次の機会に書ければと思いますが、わたしの世界の捉え方もありますし、その根本的な原因は両親との関わり方にもある。だから、ここでもひとりで何とかすべてを解決しようとしていたわたしに、両親へ「助けて!」と言わせたこのポリポーシスという病気は、神様の采配だったのかなとすら思えてしまうのです。

うつ病を患ってからもなお、弱音を吐けなかったわたし。手術や病気のことは想像だにできないくらい怖かったけれど、結果的に仕事を辞め心と身体を整える時間ももてました。いろんなところに強制ストップをかけて、入院までのあいだ、日々を生きることと絵を描くことだけをして過ごせたのは、この人生の贈り物の、はじまりだったのではないかと感じています。

今まで人生で楽しんだことはなかったのかって?どれも真面目に取り組んできただけ。様々な助言を真摯に受けとめて、制作にさえも“あそび”がない。ただ楽しいことってなんだろうね?強制ストップをかけて、思いだしたい、ただ好きでものをつくっていた時代の記憶を。



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