サイコパス

先生と呼ばれる奴らに碌な者はいないが、亡くなった夫は先生と呼ばれるのがふさわしい、地に足の着いたまっとうな医者だったので、何処に行ってもH先生と呼ばれていた。

紺ブレにチノパン、ボタンダウンのシャツはブルーか白、冬になるとジャケットがツイードになるのが彼の定番のスタイルで、それから逸脱することは無かったが、その姿は小柄な彼をいちばん上品に引き立てるファッションであったし、彼自身も自覚していた。

イタリアが好きな人でよく二人で旅行したが、ローマの美術館で、ねえ、この絵ってさ…と彼の腕を組んでくっついたら、よく似た背格好の知らない紺ブレチノパンの外国人のお爺さんだった。
焦って、すみませんと謝って駆け寄った夫の姿を見ると、確かに間違えるよねと納得の笑みで、ウチのバーさんが急に黒髪の若い美人になったから驚いたよ!とイタリア人らしいジョークで返してきて、彼ら夫婦と私たち夫婦でバールでワインを飲むことになったことがあり楽しい時間を過ごした。

ローマと言えば、靴好きの私が、タニノクリスティの店があるからブーツ買って行くねと言うと、そんな日本のブランドの靴なんて東京で買いなさいよ、荷物になるだけだよと言う。
「え…、もしかだけど、本当にもしかだけど、タニノクリスティって谷野さんじゃないよ?どちらかと言えば、タニーノ的なイタリアのブランドよ。ナオミキャンベルが日本人じゃなく黒人モデルみたいに!」と返すと、ブランド品にお金を使いすぎると嗜めることが多かった彼が、うん、まあ買ってもいいよ…と照れながら答えた。

彼の人生を三つの言葉で表すのなら、ヨット、ジャズ、ドクターである。
この言葉の順番通りに、ヨットマンであることは彼の人生で一番重要なことだった。
医者はまぐれでなったけど、ヨットマンにはなるべくしてなったんだよと言って笑っていた。
彼のヨット関連のパーティーへ行くと、同じヨットに乗っていた人たちから、H先生のおかげで今僕らはここにいるんですよとよく言われた。
彼のポジションはナビゲーターだったが、信頼が厚い彼はスキッパーも時々やっていた。
彼がスキッパーをしていた廻航のとき、天候が急変し激しい嵐に巻き込まれた。何百何千と言う激しい稲光と轟音にパニックになったクルーたちがタグボートで逃げようとするのを、彼は、この船に留まるのが一番安全なんだ、今この船を離れたらそれは死なんだ、この嵐は直ぐに収まるんだ!と説得し、実際に彼のヨットクルーは一人も死なず、同じ嵐に巻き込まれた他の船のタグボートで逃げたクルーは未だに行方さえ分からない。
子どもの頃に読んだムーに、バミューダトライアングルでさっきまで食事をしていた形跡そのままで乗組員は誰一人いない無人の船がよく見つかるという話が載っていたが、天候が短時間で激変する海上ではあり得る話なのだと彼に教えてもらい、長年の謎が解けてスッキリした。

そんな冷静沈着な彼が、嫁選びを的確に判断できなかったことの方がバミューダトライアングルミステリーより謎である。

私がツイッターをしていたころ、彼の医者としての知識による面白いツイートをしようとしたが、一子の大ぼら吹きツイッターに医者として関与することは出来ないと頑なに医療に関することは書かないようにと釘を刺されていたが、「美人薄命と言うけど、あれ、間違いなんだよ。僕は長年医者としてすごい数の死亡診断書書いてるから分かるんだけど、圧倒的に不細工な人の方が若くして亡くなっているんだよ。そもそもとして美人の個体数が圧倒的に少ないんだから。ただ、美人が亡くなるともったいない感がすごく印象に残るから、そんな言葉があるんだね」
「美しいと人が感じるのは、健康だからなんだ。健康に気を付けてないと美しさは保てないんだよ。だから美人は割合的に長生きなんだよ。」
「50歳過ぎて美容命な感じの色白の女性の診療には気を付けてるよ。そもそも人間と言う生き物は陽に当たらなければ病気になってしまうし、陽に当たらないと精神も病む。そして、その年まで色白にこだわる執念。ヒステリックな女性が多いしクレーマー予備軍だね」など、
あの頃ツイートしとけば笑いもフォロワー数も獲れたネタも実生活の会話では多かった。

ただ、私が美肌や筋肉をつけるのにはたんぱく質をとにかく摂れと書いたことを読み、間違いではないが、過剰にプロテインなどケミカルな要素のあるものを摂取し続けると腎臓を壊す、取り返しがつかなくなることは書いておきなさいとアドバイスされた。

彼は、陽気で洒落たものを好み、土着的なもの、暗い感じのするものを毛嫌いした。
ニーナ・シモンをオーディオで鳴らしていると、帰宅した彼が、病院でさんざん疲れて帰ってきてからそんな重い歌声を聴きたくないと、NYのジャズクラブでかかっているような軽快なスイングしているジャズをかけ直し、自作したマティーニをひっかけつつ、前菜を作るのが日常だった。

写真集を蒐集することが趣味の私が、井上青龍の釜ヶ崎を見ているとき、何十万円も出してそんな悲惨な人々を芸術として扱う本を買う事を僕は否定すると告げられたことがある。
彼の病院には、生活保護受給者や、いくら祈っても助からない人たちが大勢押し寄せ、リアルにその苦しさを目の当たりしている彼の一つの立派な見識であったと思う。

病で動けなくなった彼は、それでも食事の時はきちんとした白いリネンのシャツを私に着せてくれと要求し、髪を整えさせた。
禿ているのに、生意気にもいつもつむじのところにくるりんとパーマをかけたように寝ぐせをつけていることを指摘しつつ櫛でとかしながら、私も最近前髪が薄くなってきてんのよねと言うと、本ハゲの僕に喧嘩売ってんのかと、病身の彼が私を笑わせてくれた。
因みに、修学旅行の時に撮った写真の中学生の彼も、つむじのところがくるりとしていて、年季の入った寝ぐせなのである。
家事で目を離した数分のうちに、ベッドで寝ていた動けないはずの酒好きの彼がリビングのテーブルでちゃっかりウィスキーをロックで飲んでいたことがあり、ワープしたの?と思わず聞いたこともあった。

彼はヘミングウェイの移動祝祭日のエピグラフを諳んじていた。

「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことが出来たなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」

それは、若いころからヨットマンとして過ごしながらも、暮らしの為に本格的に医者として働かざるを得ず、ヨットから離れたことへ対しての海への思慕で語られることが多かったが、今の私には、彼と暮らした日々への思いそのものである。
彼との日々は、祝祭であった。

医者として、まっとうな人間としての彼は、私をサイコパスと診断していた。そして、私自身もそうだろうなと分かっていた。

生育環境や、容姿や、色々なことにたまたま恵まれていたから事件を起こすことなく穏やかな人生を暮らしているんだよと言った彼に、捕まるようなサイコパスは、そもそも大したサイコじゃないわよ。レクター博士だって、サイコ代表みたいに描かれているけど捕まってる時点でアウト!と答える私に、それこそがサイコの考え方だと笑われた。

だけど、私はサイコパスじゃなかった。
21歳年上の爺さン一人がこの世からいなくなっただけのことに激しく動揺し、悲しみ、己の命さえ絶とうとした。

彼が亡くなってから伝えたいことは沢山あるが、美奈子はサイコパスじゃなかったよ、あなたの診断間違っていたよ、誤診だったよと言うことをいちばん伝えたい。

そんなサイコパスの風上にも置けないなんちゃってサイコパスの小池一子の日常は続く。


















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