2022年春の号は、小野小町「花の色は・・・」【KOZUKA 513 shop paper vol35 2022/04】
ショップペーパーのネタがないときは、俳句や短歌に逃げるのが常道・・・。俳句や短歌には季語や季題があるから、それらしい季節の1文に仕立て上げることができる。そんなにいつもいつもやっている訳ではないし、取り上げるからには自分の感動がそこにあるからなんだけどね。
切羽詰まって俳句や短歌を調べると、「え?そういうことだったの?」みたいな新しい発見をすることも多い。
小野小町の「花の色は・・・」もそう。よく見聞きして知っているつもりでいたけれど、掛詞については認識してなかったし、「私の容姿もすっかり衰えて」なんてどこをどう読んでも思い付かないだろ、と突っ込みを入れたくなる。
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花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
(小野小町)
(花の色はむなしく色あせてしまった 春の長雨が降っていた間に
私の容姿もすっかり衰えてしまった 生きていることの
もの思いをしている間に)
どこをどう読めば「春の長雨」が出てくるのかと思ったら
「ふる」は「経る」と「降る」の
「ながめ」は「眺め」と「長雨」の掛詞なのだそうだ
日本語の豊かさというか 複雑怪奇さを感じさせられる
それにしても 桜の様子の移り変わりに自分の容姿の衰えを感じるとは
日本人の美意識は奥深すぎる
その桜の花も、豪華絢爛さと儚さを表裏一体にもっていて
桜を歌った歌はたくさんあるけど どちらかというと
儚さ・悲しさに寄せたものが多いような気がしている
学校で言えば 出会いと出発の季節である入学式や新学期にまで残ることはまれで
卒業式の頃に咲き誇って散っていくイメージが強いのかもしれない
もちろん 地域差もあるしその年その年で開花時期も散る時期も違うから印象でしかない
なにかしら日本人の心象には 咲き誇る桜よりも散りゆく桜の方が強く響くみたいだ
今年の桜は 例年に比べて長く咲いていたように思う
その分長くもの思いにふけっていたような気さえしてくる
あぶないあぶない
桜が終わり 若葉が生い茂るころには 季節はもう初夏
確実に次の季節にバトンを渡そうとしている
もの思いにふけっている場合ではない
もうこの辺りの田は 新しい命 稲の苗が植えられるのを今か今かと
待っている
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母親が俳句をやっているせいもあって、短歌より俳句の方が馴染みがある。俳句をやる人間は「短歌はどうも饒舌」と言う。確かにそんな気もする。枕詞とか短歌には短歌の様式美があって、連歌や返歌みたいなその昔のコミュニケーションツール的なことがあるから、それはそれでいいのだとは思う。「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」(斎藤茂吉)なんかはこの字数でなければ表しえないものだと思う。
ただ、昨今テレビなどで流行っているけど、たった17文字の中でより効果的なイメージを作ろうとする俳句はやっぱりスリリングだと、番組を見るたびに思うのだ。
自分でも作ってみたことはある。「これはいいのでは!」と思ったものを母親に見せると、「・・・」とほぼ絶句される。そういえば母親は、地方コミュニティー新聞の投句コーナーの選者をやっていた人だった。かなり公平な目で見て、自分の俳句は凡人~才能なしだったのだろうと思う。
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