「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(8)
第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張
3、隋と高句麗の仲介構想
では、前回述べた僕の推論、啓民可汗の「隋・高句麗 間の仲介構想」について考えていきます。
この構想の根底には、啓民可汗が新たに目指した、「隋への非完全服従」という目標が考えられます。その根拠は、「皇帝に対する呼び方の違い」にみられます。
かつて啓民可汗の伯父・沙鉢略可汗が、上表文※1 で文帝を「大隋の皇帝」と記したのに対し、啓民可汗は文帝を「聖人可汗」、煬帝を「至尊可汗」と記しています。
突厥の王号である「可汗」は、「皇帝」と同義語で、始めは南北朝時代(439~589年)の北朝の国家・北魏(386~534年)の皇帝を指す称号でした。本来、可汗と皇帝は「対等の関係」だったのです。
北魏の皇帝は、「中華皇帝」であると同時に「鮮卑族の部族長」※2 でもあり、「皇帝の顔」と「可汗の顔」の両方を併せ持つことで、連合体としての胡漢融合(北方異民族と漢民族の入り混じり)統治を実現させたのです。
隋の宗室・楊氏や、後述の唐の宗室・李氏も、建前上は漢民族を称しましたが、実際には漢民族化した柔然・鮮卑系の流れを汲み、レビラト婚※3 など遊牧民族特有の風習も行われていました。
こうしたことから、啓民可汗は、隋帝国を北魏のような、「皇帝可汗を中心とした諸民族連合国家」として捉えようとしたのではないかと、僕は推測します。
啓民可汗は、「隋皇帝」に対しては、「中華皇帝の臣下の一部族長」に過ぎませんでした。しかし、隋皇帝を「可汗」に置き換えると、その立ち位置は変わってきます。
つまり、自らを、「中華を治める最高格の可汗(=隋皇帝)」と対等に並立する、唯一人の「華外(中華の外の世界)を治める有力可汗」」と位置付けることができるのです。
啓民可汗は、「中華一強世界」の構築を掲げる煬帝に対し、東突厥が他の冊封諸国とは一線を画す対等な存在であることを、改めて強く示唆しようとしたのです。
そして、東突厥が隋と対等に並立するために不可欠な存在だったのが、やはり高句麗でした。
これまで啓民可汗は、隋に従わない周辺諸国の平定などを通して隋に従いつつも、「高句麗との交易」をほのめかすなど、煬帝に「一定の緊張感」を与えながら、したたかに均衡を保ち得てきました。
しかし、隋が高句麗遠征によって高句麗の平定を果たしてしまうと、隋に臣従しない周辺国家は東突厥と敵対する西突厥を除いて、ほぼ皆無となります。
僕は、啓民可汗が、やがて高句麗や西突厥を平定した煬帝が、改めて東突厥に脅威を感じて矛先を向けることを防ぐために、「高句麗が完全服従しない形での、隋と高句麗の和平」を成そうとしたのだと考えます。
それは、「高句麗を東突厥の管轄下に置く」というものです。この頃の高句麗は、朝鮮半島内での百済や新羅との抗争が激化し、百済・新羅はそれぞれ、冊封主の隋に高句麗征伐を要請していました。
そこで、啓民可汗は、隋とも高句麗とも良好な自らが緩衝材となることで、煬帝に「隋-百済、隋-新羅」と「東突厥-高句麗」という二極体制による「分割冊封支配」を採ることを提案したと推測します。
本来、武力行使ではなく、「異民族が中国を慕って来るようにさせる」ことを基本方針としている煬帝にとっても、臣下の啓民可汗を通して高句麗を従わせることに成功すれば、平和裏に目標を達することができます。
煬帝が北方巡幸を行った607年の1月、啓民可汗は一門を率いて隋に来朝し、煬帝が大いに喜んだとされます。さらに5月にも、啓民可汗は子や甥を次々に隋へ入朝させています。
そして、先述のように、煬帝はこの年の8月に啓民可汗を訪ねた際、高句麗の使者と遭遇し、高句麗王の隋への早い帰順を促しました。
ですが、これは高句麗の使者が偶然居合わせたわけではなく、あらかじめ啓民可汗が、隋へ来朝した時に両国の仲介の話を煬帝に伝えた上で、敢えて高句麗の使者との会見の場を提供したのではないかと、僕は想像するのです。
しかし、高句麗王が隋に入朝することはありませんでした。611年に西突厥を臣従させた煬帝は、ついに612年から三度に及ぶ高句麗遠征を挙行します。この時、既に啓民可汗は世を去っていました(609年)。
(次回へつづく)
※1 臣下が皇帝に送る文書。
※2 鮮卑・・・ 紀元前3世紀に登場した中国の北・東北部の騎馬民族。南北朝時代の北朝(北魏・東魏・西魏 ・北斉・北周)の各王朝を建てる。
※3 先代の可汗の寡婦(未亡人)が新たな可汗に嫁ぐこと。以下を参照。