「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(7)
第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張
2、「中華一強世界」を目指す煬帝
「鉄の交易」を通して突厥と結ぶことで、隋の脅威に対応しようとした高句麗でしたが、突厥の東西分裂(583年)後、東突厥は先述の通り、隋に帰順してしまいます。
605年、煬帝は、遼東に侵入して第一次高句麗遠征(598年)の引き金となった契丹を征伐するにあたって、東突厥の啓民可汗(染干)にも出兵を命じました。
この時、啓民可汗は契丹に対し、遼東へ来た名目を「高句麗との交易のため」と偽り、隋軍と共に契丹を打ち破ります。このことから、煬帝の即位後も、東突厥・高句麗間で交易が続けられていた事実が証明されます。
つまり、隋に帰順したとはいえ、いまだ高句麗と強い結び付きを保っていた東突厥は、煬帝にとって決して無視できない、警戒すべき存在だったのです。
そのような状況下で、607年、北方巡幸※1 中の煬帝は、啓民可汗の元を訪れた際、偶然居合わせた高句麗の使者と鉢合わせします。
この時、煬帝は高句麗の使者に、高句麗王の隋への早い帰順を命じ、従わない場合は、「必ず啓民を率いて高句麗に巡幸する」と脅します(隋書『突厥伝』)。
啓民可汗が高句麗の使者を隠さずに、煬帝に堂々と謁見させた意図は、「高句麗との繋がりを敢えて見せることで東突厥の威を示そうとした」と言われます。
これについて、僕はさらに、啓民可汗が「隋と高句麗の仲介」を行おうとしたのではないか、と推測します。まず先に、隋からみた「高句麗という国家に対する視座」を、文帝と煬帝、それぞれの観点から見てみます。
文帝は、中華統一(589年)が成った際に、「今、(中国は) 率土大同※2 となり、長安と四方の鎮守以外には、軍事兵器の使用を取り止めることが望ましい」と述べました(資治通鑑)。
その後、実際に文帝は全国から兵器を回収し、個人の密造も禁じています。つまり、既に理想的な平和世界を完成させた文帝には、「中華の外に領土拡大を目指すという野心は無かった」と想像されます。
第一次高句麗遠征は、あくまでも「無断で隋領(遼東)へ侵入した高句麗を咎める」ものであり、先述の通り、高句麗王が謝罪したことで、文帝は兵を退かせ、さらなる討伐を禁じました。
文帝にとっての理想的な平和世界とは、高句麗や東突厥をはじめ、独立した冊封諸国を「一国家」として認めた上で、その上に宗主国である中国王朝が君臨するという、従来の冊封体制※3 に基づいた世界像でした。
ところが、煬帝の時代を迎えると、隋は文帝の時代とは全く異なる国家観を持つようになります。
「もとは中国の国家の地を、野蛮人の国にしておくことができましょうか」。これは、煬帝に高句麗王への帰順要請を進言した、隋の重臣・裴矩【547~627】が、高句麗について述べた見解です(隋書『裴矩伝』)。
裴矩は発言の根拠として、かつて遼東をはじめ高句麗領には、「中国の郡」が置かれていた歴史を挙げました。即ち、高句麗を「冊封下の独立国家」ではなく、「中国の一地方政権」だと位置づけているのです。
これにより、たとえ高句麗を攻めた場合も、その行動を「侵略」ではなく、「国内の地方政権の反乱の平定」という大義名分を持った行動にすり替えようとしたのです。
煬帝は、東突厥に対しても、隋に帰順したばかりの頃に、その征伐を父・文帝に進言するなど、即位前より「対 異民族・強硬派」でした。
ところで、煬帝が啓民可汗を訪ねた北方巡幸中に詠んだ詩の中に、このような句があります。
この巡幸で煬帝が巡った北方の地域は、七百年ほど前に、漢の武帝※4 が匈奴※5 に対する遠征を行った地域と重なっています。この武帝の遠征は、匈奴を服従させることができずに帰還することとなりました。
道坂昭廣氏曰く、煬帝はこの句で、「同じ遠征を行いながら、私はすぐに目的を達成して異民族に慕い寄られるようになったが、漢の武帝は苦労して武威を張りながら何の成果もあげなかった」と、誇らしく謳い上げています。
冊封諸国の独立を認めた上で「中華中心世界」を完成させた文帝に対して、冊封諸国を完全支配して、歴代王朝で史上最大の版図を築いた漢の武帝をも超える、「中華一強世界」を目指したのが、煬帝だったのです。
(次回へつづく)
※1 皇帝が自ら各地を視察すること。
※2 人類が最終的に到達する自由平等平和の理想的なユートピア。
※3 冊封体制・・・宗主国である中国王朝が周辺諸国の首長に爵位を与え、
諸国の自治を認めた上で形式的に結ぶ君臣関係。
※4 前漢(紀元前202年~西暦8年)の7代皇帝。在位は紀元前141~前87
年。朝鮮半島に4つの郡を置き、直轄地とした。
※5 紀元前3世紀~紀元後1世紀に活躍したモンゴル高原の騎馬民族。
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