「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(9)
第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張
4、隋と東突厥、決裂の時
612年から始まった、煬帝の三度に及ぶ高句麗遠征は、高句麗の反撃や、隋の将軍の反乱といった予期せぬ事態に見舞われ、成果を上げられないまま、最後は高句麗王の降伏を受け入れるという形で、幕を下ろしました。
一方、この頃の隋国内では、高句麗遠征に反発する民衆や群雄が次々と蜂起し、絶頂を迎えていたはずの煬帝の治世にも、陰りが見え始めます。
そうした中、615年、太原(現・山西省)を巡幸していた煬帝は、突然、東突厥の大軍に包囲されてしまいます。「雁門事変」です。
事の発端は、啓民可汗の長子で後を継いだ始畢可汗【在位 609~619】の勢力拡大を危惧しての、「隋側の離間策」にありました。
それは、始畢可汗の弟に公主を降嫁させて、新たな可汗に擁立しようという裴矩《はいく》※1 の献策でした。しかし、始畢可汗がこれに反発すると、隋は始畢可汗の寵臣※2 を謀殺してしまったのです。
激怒した始畢可汗は10万の兵で煬帝への襲撃を企てます。この時、事前に煬帝へ、極秘に急を報せたのが、東突厥の可賀敦※3・義成公主でした。
かつて、隋の宗室から啓民可汗に降嫁した義成公主は、啓民可汗亡き後、レビラト婚により始畢可汗の妻となっていました。和蕃公主には、こうした非常事態の際に、「祖国へ危機を知らせる役目」も求められていたのです。
間一髪で防衛拠点・雁門へと逃げ込んだ煬帝でしたが、すぐに東突厥軍に包囲されました。絶体絶命の危機の中、義成公主に支援を頼むよう勧めた臣下の蕭瑀(煬帝の皇后の弟)【575~648】は、煬帝にこのように進言します。
これは、「この突厥の一難が終われば、煬帝はまた高句麗遠征を命じるのではないか」と不安に駆られている「将士たちの心中」を察しての、諫言※4 でした。
この時、いまだ次の高句麗遠征を諦めていなかった煬帝でしたが、ついにこの言に従うと、隋軍の士気は大いに上がり、逆に東突厥軍を押し返して追撃するほどの奮戦をみせました。
「官民の代弁」と言うべき蕭瑀の言葉は、隋国民にとって、高句麗は既に、「奪回すべき自分たちの領土という認識ではない」ことの表れであったと言えるのです。
僕は、始畢可汗が隋に不信感を募らせた原因には、「西突厥への離間策の本格化」も関係していると考えます。
611年、煬帝は裴矩の策を用いて、西突厥に内紛を生じさせました。そして、孤立した大可汗に公主を降嫁させて支援し、臣従させるという、かつて「文帝が東突厥の啓民可汗に用いた離間策」と同様の方法を採りました。
さらに、煬帝は、その西突厥の曷薩那可汗【?~619】を高句麗遠征に従軍させるなど、次第に西突厥とも、東突厥と同等の関係性を築いていきます。それは、煬帝が抱く、「東突厥の強盛に対する恐れ」を示していました。
一方、東突厥にとっては、前回書いた、『「中華を治める最高格の可汗(=隋皇帝)」と対等に並立する、唯一人の「華外を治める有力可汗」(=東突厥の可汗)」』という立ち位置が脅かされることを意味したのです。
長年に渡って築き上げられた、隋と東突厥との平和共存の破綻は、煬帝の再度の高句麗遠征、延いては「中華一強世界の夢」をも挫くことになったのでした。
そして、雁門事変で煬帝を救出した将校の中には、19歳の若き李世民(のちの唐の太宗)の姿もあったのです。
煬帝の治世は、高句麗遠征は元より、副都・洛陽の造営、京抗大運河の建設など、行われた事業の数々には大量の労働力が使役され、民衆の不満を集め、後世、煬帝が「暴君」として語り継がれる所以となりました。
しかし、洛陽を副都に置いたのは北周の時代であり、大運河の建設も父・文帝の代から着工が始まっていました。即ち、煬帝の治世の事業の多くは、「前時代から既に開始されていた事業の踏襲」でした。
実際、道坂昭廣氏によれば、煬帝は自身の詩の中で、「自分の功績は古の王達のものを継いだだけだが、まだ彼らの治政には及ばない」(『冬至乾陽殿受朝』)と詠んでいます。
このように、旧来の路線継承を守ってきた煬帝が、唯一、自らの事業として推し進めたのが、高句麗遠征だったのです。
副都・洛陽もまた、遠征に必要な物資を運ぶ運河を通して、遠征の基地である涿郡(現・北京)とを結ぶ重要拠点でもありました。大運河は、その後の中国王朝の経済にも多大な恩恵をもたらすこととなります。
煬帝がその治世を、かくも「中華一強世界の夢」に懸けた根底には、詩中の「古の王たち」の一人であり、中華統一という偉業を成した、「偉大な父を超えたい」という、二代目君主としての悲願があったのかもしれません。
(第三部へつづく)
※1 前回を参照。煬帝が高句麗の使者と会見した際に、「高句麗は中国の領土」と主張し、煬帝に高句麗王への帰順要請を進言。
※2 寵愛している家臣。
※3 可汗の妻。
※4 臣下が主君を諫めること。