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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂

5、隋の中華統一と「東突厥の統一」


 589年、隋は南朝のちんを平定し、ついに念願の中華統一を果たしました。しかし、間もなく突厥では、都藍とらん可汗と再婚した大義たいぎ公主が、滅んだ陳に自らの故国・北周の滅亡を重ねた詩を作ります。


文帝・楊堅 
ヤン・リーペン, Public domain, via Wikimedia Commons


こうして、文帝と大義公主との仲は再び険悪となります。間もなく大義公主は、「隋からの亡命者」や西突厥の可汗と反乱を企てたとして、公主の身分を剥奪はくだつされました。

 そのような中、都藍可汗の従兄弟・染干せんがんが独自に、文帝に「自身への公主降嫁」を願い出ます。その目的は、猜疑さいぎ心の強い都藍可汗への恐れから、これを機に都藍可汗からの独立を狙ったと考えられます。

この時期の都藍可汗は、強勢となった弟を警戒して滅ぼしたり、大義公主らに扇動されて、隋への朝貢ちょうこう(貢ぎ物)も絶っていました。

都藍可汗と隋が争う事態となれば、隋と協力関係にある染干は、都藍可汗の猜疑心をあおる対象となります。

染干の生き残る道は、自分も隋の公主を娶ることで、都藍可汗に対抗できる強力な後ろ盾を得ることだったのです。隋から染干に届いた返答は、「大義公主を殺害すれば婚を許す」というものでした。

 染干の讒言ざんげん※1 を信じた都藍可汗は、自ら大義公主を手にかけます。597年、突利とつり可汗(小可汗)と称していた染干は、隋の公主を娶りました。都藍可汗もまた、隋に新たな公主の降嫁を求めます。

しかし、隋から許可が降りることはありませんでした。やがて、隋は染干の要請を受け、都藍可汗の討伐を行います。激怒した都藍可汗は染干を攻撃し、染干は長孫晟とともに、わずか5騎で長安ちょうあんの文帝の元へと逃げ延びます。

染干は文帝から大可汗に擁立され、ここに啓民けいびん可汗【在位599~609】が誕生します。この時、以前に嫁いだ公主は既に亡くなっており、啓民可汗は新たに義成ぎせい公主【?~630】を娶りました。

間もなく、隋の再討伐を受けた都藍可汗は、部下の裏切りに遭って殺されます。最終的に生き残ったのは、「大義公主を娶らなかった染干・啓民可汗」でした。
 


 文帝の離間策は、「啓民可汗の擁立による東突厥の統一」を以って完遂しました。その最大の目的はやはり、大義公主をはじめとした「親・北周派の掃討」にあったと思います。

大義公主の謀反に協力した「隋からの亡命者」については、都藍可汗に反乱の計画を「いつわりて言ふ」(資治通鑑)とあります。都藍可汗は彼を匿おうとしますが、長孫晟がすぐに発見して捕えています。

このことから、実際にはこの人物は亡命者ではなく、隋が送った「間者」だったと、僕は考えます。その目的は、大義公主を焚きつけて謀反を起こさせ、粛清する大義名分を作るためでした。

 文帝は、陳の平定以前は、婿の沙鉢略可汗・養女の大義公主夫妻を「偽装家族という曖昧なベール」で安堵させて後顧の憂いを断ちました。

そして、中華統一後は満を持して都藍可汗・大義公主夫妻を滅ぼし、傀儡かいらい※2 として扱いやすい啓民可汗と相互共存の関係を築くことで、東突厥を「完全な親隋国家」に変えたのでした。

それが成し得た原動力はまさしく、都藍可汗以上の、「文帝自身の猜疑心の強さ」だったのです。


年表4



(第二部へつづく)



※1 相手を陥れるための偽りの悪言。
※2 他人の言いなりとなる、操り人形のような存在。

#世界史がすき


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