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武道とは何でしょうか?

1 ネットニュースでも取り上げられているので、この一件をご存じの方もおられるだろう。

 この動画(作成者)が訴えているメッセージは、次の3つである。

①武道とは何でしょうか?
②背中向けている相手を攻撃しろと指示を出すセコンド
③後遺症が残ったら誰が責任取るんですか?

 ①②③は、それぞれ独立した問題であり、相互に直接関連しているわけではない。
 
 まず、③について簡単に触れる。

 スパーリングや試合中に発生した怪我については、怪我をさせた行為が「ルールを守っている限り」、法的(民事・刑事)責任は発生しない。

法令又は正当な業務による行為は、罰しない。

刑法35条

 ボクシングの試合で死亡事故が起こる事が稀にあるが、死亡させた側が傷害致死罪等に問われないのも、ボクシングを始めとする格闘技には社会的有用性があるので、「ルールを守って」試合が行われている限り、そこから生じる怪我や(最悪)死亡事故についても、「正当行為」として罪にならないからである。

 裏を返して言えば、相手に怪我をさせた行為が「ルールを守っていなければ」、「正当行為」にはあたらず、法的責任が発生しうる。

 この動画で扱われている少年空手大会の試合(以下、「この試合」と略す)の場合、相手の背後から蹴るのが反則でなければ、蹴った側には法的責任は発生しないだろう(反則であれば、法的責任は発生しうる)。

 勿論、「相手の背後から蹴る行為が反則にならない」というルールセッティング自体が妥当かどうか?は法的責任の有無とは別個に問題となり得る。
 
 私は、この試合のルールが分からないので、③後遺症が残ったら誰が責任取るんですか?という問題については、これ以上の回答は出来ない(より詳しい回答は、下記リンクを参照)。


2 さて、本稿の主題である「①武道とは何でしょうか?」という問いについての私見を述べたい。

 この点についてはこれまでも、「武道とは、武(力)を手にするための方法論に過ぎず、その本質は暴力だ」と述べて来た。
 
 「武道の本質が暴力である」と考えるのがおかしい事だと私は思わない。

 出刃包丁を例に取ろう。

 上手く使えば、魚を三枚におろして美味しい料理を作り、人々に口福を届ける事が出来る。
 その一方で、これが鋭利な刃物である点に着目して、人殺しの道具に使う者もいる。
 
 魚をおろすのに使われた出刃包丁が「良い包丁」で、人殺しに用いられた出刃包丁が「悪い包丁」だと考える人はいないだろう。

 武道もそれと同じである。

 武道それ自体は、善悪の観念とは全く別次元の存在であり、ただそれを用いる人間次第で、(彼ないし彼女の)行為が善にも悪にも成り得るだけの事だ。

 武道の中に宗教的要素や倫理観を取り込もうとする人々は、武道の持つ暴力性を何とか制御しようと試みているのだろう。

 「武道の持つ暴力性を制御する」という発想は、武道が社会的に(=武道の稽古をしていない世の中の大多数の人々にも)受け入れられるために必要だと私も思うが、そもそも善悪とは別次元の存在である「武道」の中に宗教的要素や倫理性を接合しようとするのは、出刃包丁に倫理観を求めるのと同じで無理がある。

 だからこそ、武道の暴力性を制御する装置として、その本質とは別に「礼」という存在が必要になる。

3 この試合のルールを無視して言えば、結果論に過ぎないとしても、怪我をさせられた子が後ろを向いた時点で「戦意喪失」と見做して、審判が試合を止めて失格にすべきだったと思う。

 この試合の直後には、「後ろを見せるのが悪い」(つまり、怪我をさせられた子が悪い)という声もあったらしいが、プロの格闘技の試合ならばともかく、10歳前後の子供にそこまでの心構えを要求するのは酷だろう。
 
 確かに、「試合はどんな手を使っても勝たなければならない」と考えるのであれば、審判の「待て」が掛かっていない(この試合では主催者の説明によるとそうらしい)状況で、相手の背後から蹴るのは極めて合理的な勝ち方かもしれない。
 
 そして、「試合に勝つ」ための指示をする事(だけ)がセコンドの役割だとすれば、「②背中向けている相手を攻撃しろと指示を出すセコンド」は、自らの責務を全うしたとすら考え得る。

 しかしながら、この試合がこれだけ大きく問題視されている所を見ると、戦意を喪失した相手を背後から蹴る行為について、多くの人は「何かおかしい」「卑怯だ」と感じているハズである。

 先に私は「武道の本質は暴力」と述べたが、それと同時に、「武道の暴力性を統御するために礼が必要だ」とも書いている。

 ここで言う「礼」とは、いわゆる「武道礼」に限った話ではなく、「礼節」とか「則(のり)を超えない」といった意味である。

 武道の指導者は、暴力を本質とする「武道」の技術を教えるだけではなく、それと合わせて、その危険性と、これを制御するのに必要な「礼」もまた教えなくてはならない。
 
 「武道」だけ習って、「礼」を欠いた人間は社会不適合者にしかなれない。

 この試合のセコンドの最大の問題は、「武道」を教える事は出来ても、「礼」儀が全くなっていないという点にある。

 彼は、子供達に空手を教える事を通じて何がしたかったのだろうか?

 

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藤田 正和
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