笑えないジェンダー論

1 私の記事を継続して読むと、「コイツはいつも同じ事ばかり言っている」「ネタに新味がない」という感想を抱く方もいるはずである。これは内田樹先生の影響でもあるが、本当に伝えたい事があるならば、それを手を変え品を変え繰り返し書くのは止むを得ないと思うし、読者の興味を引くためにネタを探して書くくらいなら、今後はAIに任せた方が私よりよほど良い文章を書いてくれるだろうと考えているからである。
 noteで書き始めて何か月か経っても読者の方から全くコメントが頂けなかったので、twitterを始めてみたが、何もつぶやく事がない。「お腹が空いた」とツィートするくらいなら、食事を取ればいいし、「トイレに行きたい」とつぶやく前にトイレに行った方がよい。そして、ツィートするネタが思い浮かんだなら、記事にしてしまう。
 だから、私の場合twitterは読者の方からコメントを頂けるようになったので、アカウントをさっさと閉鎖してしまった。

 GW中に瀬地山角先生の「ジェンダー論」に関する本をまとめて読んだ。瀬地山先生と始めてお会いしたときに、「学生と教員の懇親会にどうして院生が混じっているのだろう?」と思ったら、その方が当時40歳頃の瀬地山先生だったのを今でもハッキリ覚えている。
 『お笑いジェンダー論』の中でも瀬地山先生が(ご自身曰く)童顔でコンパや講演会でまず学生に間違われることをネタにされているが、そのくらい見た目が若々しい。ネタも面白いので、本当に頭の良い方なのだと思う。
 瀬地山先生が20年前に出版された『お笑いジェンダー論』と2年前に出版された『炎上CMでよみとくジェンダー論』を読み比べてまず最初に気付いたのが、「ネタが変わっていない」という事である。これが同工異曲で場面設定とかのディテールに変化があるなら20年の歳月を感じることも出来るが、ほぼ一言一句そのまま同じである。それだけ元ネタの完成度が高いという事でもあるのだが、やはり本当に伝えたい事があるなら重複を厭わず、繰り返し説くべき事の必要性を瀬地山先生の本から(本筋とは全く関係ないが)教えて頂いた気がする。

2 男と女に区分される「性」には、「ジェンダー」と呼ばれる社会的性差と「セックス」と呼ばれる生物学的性差の二つが存在し、一般に生物学的性差と思われているものの大半は社会的性差に過ぎない、というのがジェンダー論の主張の骨子である。
 例えば、統計的に見ても専業主婦層は激減しているから今の若い人々には想像しにくいかもしれないが、少なくとも私が子供のころは「男は外で仕事をし、女は家で(育児や料理等の)家事をする」という固定観念があった。しかしながら、男が外で仕事を、女が家で家事をするという性別役割分業は近代社会に特有の現象で、日本では高度経済成長期にそれが一般化した(そして、今はそれが形骸化しているという意味で)ある特定の時代の家族観に依拠したものでしかないという事を明らかにしたという意味でジェンダー論の意義は大きい。
 瀬地山先生が『お笑いジェンダー論』の中で既に20年前に指摘されていたように、結婚したカップルにおける専業主婦の割合が1970年代に最高になって以降、専業主婦の割合は減少を続け、今や私の知り合いを見回しても共働き家庭がほとんどである。
 そうした家族のあり方が変化する中で、「男は外で仕事を、女は家で家事を」という固定観念を維持し得なくなっているのは疑いようもない。「男も女も外で仕事をし、女だけが家で家事を」という考え方のは家庭を維持する上での労働(家事も立派な労働である)の公平な分担という観点からは著しい不平等を生じさせており、今の世の中では通用しないと思う。

3 ただ、そうしたジェンダー論の功績を踏まえた上で、あえて私がジェンダー論という思考様式に存在すると感じた疑問点を述べてみたい。

 まず、①性を「ジェンダー」と「セックス」に分けて考えるべきだとする主張は理解できるが、両者の線引きが論者によって極めて恣意的であるという点である。
 例えば、ジェンダー論において、出産に関しては「セックス」つまり生物学的性としての女性の役割であると一般にされているらしいが、瀬地山先生も言われるように男性も人工子宮を用いれば出産それ自体は医学的に可能らしいので、なぜ出産を「セックス」としての女性の役割とするのかその理由付けが分からない。「男性も人工子宮を用いて産みの苦しみを味わうべきだ」と全ての性差を社会的性差に一元化するような主張をするのであれば首尾一貫しているが、そういう主張をするジェンダー論者はほぼ全くいないようである(全くいないという訳ではないらしいが・・・)。
 「ジェンダー」と「セックス」の線引きの恣意性という点からは「スポーツ」についても同じ事が言えて、どうしてオリンピックを始めとする各種スポーツ競技が男女別に分けて実施されている現状をジェンダー論者が非難しないのかも不思議でならない。

 次に、②男と女の果たす社会的役割が時代によって異なる歴史的なものに過ぎないのは確かだろうが、ジェンダー論が「女性の解放」ないし「女性にもっと自由を!」という形で、自由が拡大する一方のある種の進歩史観的な方向でしか物事を捉えていないのが納得いかない。
 フェミニズムの源流は近代合理主義にあるらしいが、結局それを超克しようとして、未だに近代合理主義の思考の枠内から抜け出せていないように思う。
 ①で述べたように、「ジェンダー」と「セックス」の線引きが恣意的であると私が感じているのもこの点に関連していて、これまで「セックス」とされていたものが実は「ジェンダー」だと発見されるという事をいつも繰り返している。それが社会の「進歩」なのだろうか。

 最後に、③これはジェンダー論に限らず社会学全般に言えるのかもしれないが、ジェンダー論は問題を発見する、ないし、分類化する事には長けていても、それがなぜ問題なのか?そして、それをどうやって解決すればいいのか?というロジックを自分に内在化することが出来ていない。
 例えば、育児を始めとする家事が高度成長期の日本の家庭で女性(≒主婦)の役割であったからと言って、それが「セックス」として、つまり女が生物として女であるがゆえに引き受けなければならない理由にはならないのはその通りだと思うが、だがなぜそれを男が引き受けなければならないのだろう(「男も引き受けるべきだ」と私も思うが)。
 その時にジェンダー論者が持ち出す理由付けの一つが男女「平等」であるが、この理由付けが説得力を持つためには「平等」という観念の持つ価値が社会的に承認されている必要がある。
 あるいは、「男が外で仕事をし、女が家で家事をする」よりも、「男も女も外で仕事をし、家事を男女で分担する」方が年収が高くなる、という功利主義的な発想を性別役割分業の非合理さを指摘するのに用いるのであれば、そこでも「功利主義」というジェンダー論外のロジックが使用されている事が見て取れる。
 「平等」も「功利主義」も近代合理主義の下で生まれたある種の政治思想である。それは「ジェンダー」概念同様に太古の昔から存在したものではない。
 
 本稿で私が書いた内容は、瀬地山先生が著書で企図された話とは次元を異にするが、やはり私はジェンダー論の抱えるそうした理論的欠陥を考えると、どうしても諸手を挙げてこれに賛同する気になれないのである。

参考文献
①『お笑いジェンダー論』勁草書房 (2001/12/10)
②『炎上CMでよみとくジェンダー論』光文社新書(2020/5/19)
③『図解ポケット ジェンダーがよくわかる本』秀和システム (2022/11/29)

 瀬地山先生の著書に興味のある方は①(特に1・2章)を読むことをお勧めする。

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藤田 正和
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