おかわいさうに
1 知り合いから次のような発言をしている人がいると聞いた。
「僕は競技柔術が大好きなので、競技柔術をバカにする人が大嫌いだ。〔競技柔術をバカにする人が述べる・・・本当にそうなのだろうか?・・・〕「柔術は護身術だから、試合は関係ない」「ポイント負けは負けじゃない」 「競技柔術と実戦は違う」といった意見は、 ホント聞きたくない。 」
この発言の矛先は私ではないし、発言主(以下、Aと称す)と直接の面識はないが、随分と思い切った事を言っているなと感じている。
私はXもFACEBOOKもやっていないが、この文章とAの言動を照らし合わせてみると、ネット上で「インフルエンサー」と呼ばれる存在がどういうものか少し分かった気がする。
今回は、上に引用した文章に即して「競技柔術」とエリオ系の「セルフディフェンス柔術」の関係について少し考えてみたい。
2 まず、「競技柔術」と「セルフディフェンス柔術」が基本的に相容れない関係にある事は、それぞれの立場を代表するカーロス・グレイシーJrとヒクソン・グレイシーが仲違いし続けている事実からも明らかである。Aが「競技柔術」が大好きだから、「 セルフディフェンス柔術」が好きになれないのは、水と油が交わる事が出来ないのと同じで仕方がない。
だが、「競技柔術」の行きつく先と「セルフディフェンス柔術」が追求するモノが異なるからと言って、「競技柔術」が「セルフディフェンス柔術」よりも優れているという事にはならないだろう(逆もまた然り)。「競技柔術」と「セルフディフェンス柔術」の優劣を問う事は、野球とサッカーのどちらが優れているかを争うのと同じことで、その優劣を論理的に決める事は不可能である。価値の優劣は多数決で決まるものではないので、「競技柔術」人口が「セルフディフェンス柔術」に取り組んでいる人より圧倒的に多いからといって、前者が後者より価値的に優ると言う事にはならない(同じく、逆もまた然り)。
こういう争いを「神学論争」と呼ぶが、「競技柔術」が「セルフディフェンス柔術」より優れていると本気で思っている人がいるとすれば、それは「競技柔術」信仰に陥った結果、「セルフディフェンス柔術」教を異教として排撃しようとしているだけに過ぎない。
そうした視野の狭い思考になってしまう原因は、冒頭に引用した文章にも見られるように「自分が信じるモノだけが好きで、そうでないものは嫌い」という主観的な個人の選考(=好み)によって、客観的な価値の優劣を決定しようとする誤りを犯している事に当の本人が無自覚だからだろう。
「 柔術は護身術だから、試合は関係ない」という意見を否定するのも、試合を「競技柔術で勝つ」という事に矮小化して捉えている。
確かに、「セルフディフェンス柔術」だけで「競技柔術に勝つ」事はほぼ不可能と言っていいが、「ディフェンス」「エスケープ」技術を磨き、「競技柔術」に出ても一本負けしなければ、「サバイバル」という「セルフディフェンス柔術」の目標を達成しつつ、「競技柔術」の場を有効活用できるはずである。「セルフディフェンス柔術」をやっているから「競技柔術」とは関わってはいけない、あるいは、「競技柔術」をバカにする必然性は全くない。
また、エリオが「グレイシー」の名前を広めるためとは言え、木村政彦を始めブラジル内外を問わず数多くのバーリ・トゥード・マッチをこなした事実をAはどう考えているのだろうか?あるいは、ホイスがUFCの第1回大会で優勝した事実はどう扱えばいいのだろう?
Aの言う「試合」には、バーリ・トゥードやMMAの試合は含まれないと考えなければ筋が通らない。だが、Aは次のようにも発言している。
「 競技柔術が強い人は、護身も喧嘩も強いと思っている。 」
これまでムンジアル(世界選手権)を獲ってMMAのチャンピオンになったのは、B・J・ペンとラファエル・ロバートjrくらいである。あのマルセロ・ガルシアですらMMAの試合では勝てていないし、ブシェシェことマーカス・アルメイダも未だにONEのタイトルに手が届いていない(いずれ届くかもしれないが)。
「競技柔術」の頂点に君臨したガルシアやブシェシェですらMMAのタイトルに手が届いてない所を見ると、やはり競技柔術とMMAとでは「その場において求められる強さの質が異なる」と考えた方が素直だろう。そうした現実を直視しないで、「競技柔術が実戦と違う」という意見を否定するのは、「競技柔術」信仰者に対して媚びを売っているようにしか見えない。
この記事を読んだ時に私はカーロスjrのヒクソンに対する激しい対抗心を見て取ったが、あくまでも生活の「一部」として柔術に取り組んでいる我々までもがカーロスjrとヒクソンの対立に巻き込まれる必要はない。
3 「ポイント負けは負けではない」という意見も、私はそれほどおかしいとは思わない。
「競技柔術」にポイントシステムが採用された当時、試合のゴールは「相手をサブミットして一本勝ち」する事に設定されていた。だから、ポイントも「相手をサブミットする事にどれだけ近づく事が出来たか?」という観点から、「テイクダウン」や「スイープ」に2点、「パスガード」に3点、「マウント」や「バック」に4点という形で割り振りがなされたと聞く。
しかしながら、昨今の「競技柔術」においては、当初の目的であった「相手にサブミットして一本勝ち」することではなく、「限られた時間内でいかに相手より多くのポイントを取るか(相手にポイントを取らせないか)」というゲームプランが主流になり、本来「相手をサブミット」するための手段に過ぎなかった有利なポジションの確保が目的になってしまうという「手段の目的化」というべき現象が起こっている。
「競技柔術」であれ、MMAその他の格闘技であれ、「試合に勝つ」事を目標にすれば、そのルールに応じた「勝ち方」が登場するのは当然だし、(少なくとも、柔術でプロを目指す人以外にとっては)ポイントゲームに勝つためのゲームプランが「競技柔術」で勝つために最も効率的なやり方であるのは間違いない。
ただ、もしも「競技柔術」黎明期の発想に還るならば(注1)、あるいは、プログラップリングのようにそもそも「ポイントが付かない」サブオンリーの試合を念頭に置いて考えれば話は変わってくると思う。私は下記に掲載した大会を大変素晴らしいと思ったが、Aはこの大会における「試合」はポイントが存在しないからというだけの理由で試合と呼ぶに値しないと言うのだろうか?
注1)下記の記事にあるルールは「競技柔術」の黎明期に近い形だそうである。
4 Aが 「競技柔術と実戦は違う」という考え方が間違っているというのであれば、それを証明するために、まず彼には「競技柔術」で結果を出してほしい。せめて「ワールドマスター」で優勝するくらいの実績を残さなければ、誰もその意見に耳を貸さないだろう。
もっとも、「嫌い」「聞きたくない」というのは、所詮は感情論である。インフルエンサーに限った話ではないが、ネット上の「言葉」はそれとして話者のキャラクターとは独立に流通する。もしも、そのネット上の「言葉」に矛盾があるなら、その話者の言う事には裏があると思っていい。
インフルエンサーが「キャラクター」のセルフプロデュース(自己演出)に精を出すのも、結局は彼(ないし彼女)にリアルでの実績ないし結果がない事を補うためであろう。私は大谷翔平選手に会った事はないが、彼の実績に文句を付けられる人なぞ誰もいないから、大谷選手はセルフプロデュースする必要性を全く感じていないと思う。
セルフプロデュースする暇があったら、大谷選手を見習って少しでも練習した方がいい。逆に言えば、セルフプロデュースに時間を割いている人間を私は信用しない。
もっと言うと、「聞きたくない」のであれば、耳を塞げばいいだろう。今回取り上げた文章は、わざわざネット上で発言すべき話とも思えないが、Aは、まさに今の私がそうであるように、こうした発言に一々目くじらを立てて「炎上」させてくれる人が登場するのを手ぐすねを引いて待っているのかもしれない。
そう考えると、「インフルエンサー」になるには「他人に媚びを売る」「他人の癇に障る」といった人間心理の扱いに長けていなければならない。少なくとも私は「インフルエンサー」になることは到底無理だという事が今回の一件で良く分かった。