大相撲から見える日本

1 曾祖母が相撲を大好きだったので、私も小学生の頃は、学校から帰るとTVの前に座って、大相撲中継をよく見ていた。

 曾祖母が亡くなり、私も長じるにつれて相撲中継を見る事は無くなってしまった。

 中継時間帯にTVの前にいない、という時間的制約もさることながら、「八百長問題」に端を発する一連の相撲協会の改革によって、大相撲の魅力が(私には)失われてしまったという理由も大きい。

 大相撲の結果は、TVでは「スポーツ」コーナーで報道されているし、学生相撲の存在を考えても、世間一般において、大相撲は「スポーツ」として扱われていると言っていいだろう。

 しかしながら、元来大相撲は、「神事」であり、「興行」だった。

 大相撲は、「日本の国技」と昔は呼ばれていたが、それが「国民的スポーツ」を意味するならば、相撲の競技人口は「野球」や「サッカー」に遠く及ばない。

 私は、大相撲の魅力は、それが「(格闘)スポーツ」なのか、「神事」あるいは「興行」なのか、よく分からないという性質の多面性(日本的「曖昧さ」のひとつの表れと言える)にあると思っている。

 その意味では、大相撲を指して「日本の国技」という場合、これを「スポーツ」としてではなく、「伝統芸能」に近いものとして把握する方が適切だろう。

 少なくとも、大相撲に過度に「スポーツ」性を求めるのは、その魅力を著しく減殺するもので、あまり好ましい事ではないと考えている。

2 今から20年近く昔(=「八百長問題」が顕在化するずっと前の話である)、私の友人が次のような話を教えてくれた。

 あるアメリカ人の統計学者が、千秋楽に7勝7敗の力士と6勝8敗の力士が対戦した取組と、それ以外の取組を比べてみたところ、7勝7敗の力士が勝つ確率が「異常に」高い事を発見したそうである。

 また、武術的な話をすれば、両者が組み合っている時に、片方が相手に対し正対し(ここで言う「正対」とは、自分の腰の水平ラインに対して、へその位置から垂直線を引き、その垂直線上に相手の身体を捉えている状態、を意味する)、他方が相手に正対していなければ、正対している方が「絶対に」勝つ。
 単純化して言えば、相手に対して横を向いている力士が「寄り切って」勝つという事は武術的にありえない。

 今思い返すと、私が子供の頃はそうした武術的にあり得ない「寄り切り」で勝つ力士もいたような記憶がある(あまりに昔なので、記憶違いかもしれない)が、仮にそうした取組が「八百長」だとしたら、「スポーツ」としてはあってはならない事だろう。

 だが、大相撲の「興行」としての側面を考えればどうだろうか?

 「スポーツ」と「興行」の境界線が曖昧な例としては、他に「プロレス」を挙げることが出来る。

 「プロレス」がガチだと思われていた時代はとうの昔に過ぎ、今「プロレス」にスポーツ性を求める人はほとんどいないだろう。

 大相撲も、これを「興行」として考えるならば、15日間の本場所を最後まで盛り上げ、観客を楽しませなくてはならない。

 そのためには、星取りを合わせて優勝争いを千秋楽まで盛り上げる必要もある(かもしれない)し、人気力士が三役の地位を失わないよう調整する必要がある(かもしれない)ので、少なくとも「興行」的な観点から見れば、「八百長」=悪という単純な図式は成り立たなくなるはずだ。

3 「八百長問題」を契機とする一連の相撲協会の改革によって、大相撲は一気に「スポーツ」化してしまった。

 大相撲が「スポーツ」であるならば、取組はガチンコでなければならず、結果的に力士達の怪我は増加している。
 力士という存在自体が、人間として肉体的に無理をしているため、昔から力士に怪我は付き物だったが、今の力士にかかる肉体的なストレスは往年の比ではないだろう。

 「公傷制度」が無くなって、優勝しては(翌場所を)欠場する「みっともない」・・・と、揶揄される・・・横綱が登場するようになったが、あれも年寄株の数が限られている(固定されている)事が主たる原因だとしても、横綱が本場所で負け越す事は許されない、という不文律がある事も原因として考えられる。

 私が子供の頃は、横綱は「負ける事が許されない」存在であり、「負け越す」という事は「想定されていなかった」。
 それくらい横綱が(実際に)強かったのかどうかはさておき、負けない横綱の存在を頂点としたヒエラルヒーに若い力士達が果敢に挑戦していくというストーリーに、(プロレスにも共通する)個々の星取りを超えた相撲の魅力があったと思う。

 大相撲ないし角界は、「全体社会」(≒一般社会)とは異なる「部分社会」であり、そこには一般社会とは異なるローカルルールが適用されていた。

 例えば、土俵上の「女人禁制」というルールは、今日の一般社会では男女平等の観点から許されないはずだが、大相撲が「神事」という性格をも有する部分社会であるならば、男女平等という一般規範の貫徹以上に、「神事」として相撲が固有に体現する(ローカルな)価値を優先する事にも合理性がないとは言い切れないだろう。

 大相撲を「コンプライアンス」の観点から、短絡的に「(格闘)スポーツ」イベントとして扱う(平準化する)改革によって、大相撲が元々有していた「神事」や「興行」としての側面が捨象され、「大相撲」というコンテンツだけが有していた独自の魅力を失われてしまった。

 あの改革は、本当に大相撲にとって良い事だったのだろうか?
 
 本場所が始まる度に、私はそう考えてしまう。

 
 

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