分断される社会
1 「新聞は政治的に偏向しているから読まない」という人がいる。図書館に行って朝日と産経の社説を読み比べれば、両者の政治的ポジションが全く異なっている事に誰でも気付くだろう。
また、故ジャニー喜多川氏の問題を例にするまでもなく、ある特定の勢力に「忖度」して、新聞各紙が事件を報じないという事もある。そういう意味では、「新聞が政治的に(社会的に)偏向している」という意見は正しい。
また、新聞各紙が購読者数の減少に苦しんでいるせいか、各紙は「薄く、軽く、高く」なっている。こうした点を踏まえて考えれば、新聞を読むのはコスパが悪く、ネットニュースで十分だと考える人がいるとしても不思議ではない。
だが、ちょっと待ってほしい。主要紙においては、事件に対する論評に各紙毎の違いはあっても、記事として取り上げられる事件それ自体に大差はない。ネットニュースが新聞と比べて政治的に偏向していないと言えるかはさておき、ネットニュースが取り扱う事件と新聞のそれとでは内容的に見て相当の違いがある。
それぞれ「共同通信ニュース」と「YAHOO!JAPAN」のトップページから転載したが、ヤフーニュースの後半は(大谷翔平の記事を除いて)、新聞各紙ではまず扱われないような内容ばかりである。
芸能関連の記事が入っているから、ネットニュースが新聞より低俗だという事を言いたい訳ではない。私が気になるのは、政治的(社会的)事件と異なり、芸能記事で扱われるような事件は我々の生活に直接的には全く関係がないという事である。
我々の生活に全く関係のない記事が半分弱を締めるネットニュースだけを見て育つ人が今後益々増えてくると予想されるが、そうした人々と新聞を読んで来た人との間には、世代間の差が問題にならないくらい「世界認識の枠組」が異なってくるのではないかと危惧される。
同じ国家に帰属する国民でありながら、新聞を読む人々とネットニュースを読む人の間で、国家ないし社会に対する認識のありようが全く別物だとすれば、国家や社会についてそもそも議論が成立する基礎が失われてしまう。
2 1年程前から私の通う道場でも「ひろゆき」という名前が聞かれるようになった。聞くところによると、絶対に議論に負けない「論破王」という事らしい。
ここ半年くらいで、彼が識者としてヤフーニュースでコメントをしているのをしばしば見掛けるようになった。
私は普段TVを見ないので、彼が「2ちゃんねる」を開設したあの「ひろゆき」と同一人物だと全く気付かなかったが、彼は「2ちゃんねる」を巡る一連の訴訟で多額の負債(損害賠償金の支払債務)を負った(注1)にも関わらず、今日まで一円も支払っていないと知って驚愕した。
注1)彼が裁判で敗訴して、損害賠償金の支払い債務を負った事は新聞で私も知っていた。その後、てっきり「2ちゃんねる」は潰れて消滅したのかと思っていたが、そうはならなかったらしい。
「論破王」のコメントを読んでみると、彼はその二つ名に反して何も「論破」していない事が分かる。
そもそも「議論」というモノは、甲と乙という二つの意見があり、①相手に対する批判と②自説を正当化する根拠を示して、甲乙いずれが「より説得力があるか?」を巡って争われる。そして、甲が①乙の根拠を批判してその説得力を失わせ、②自説を正当化する根拠を聴衆にたいして納得させる事が出来てはじめて、甲が乙を「論破」したと言えるのである。
これを「ひろゆき」のコメントについて見てみよう。
福島の原発処理水放出に関する彼のコメントを扱った記事であるが、放出反対派が「問題なければ飲んで見ろ」と述べるのは②反対論の根拠として説得力がなく、これを①「下水道を飲んで生活して来たのか?」と返す批判は的を得ているだろう。
だが、彼はここで自分が「原発処理水放出」に賛成か反対か?という彼の立場を明確にしていない。仮にもし彼が「原発処理水放出」に賛成なのだとしたら、それを正当化する根拠を示さなくては「議論」に勝った、換言すれば、反対派を「論破」したとは言えないのである。
この記事に引用されている彼のコメントは、岸田内閣が「減税と給付を合わせて5兆円 」するという施策に対して、「スタグフレーションになるかもしれない」といって批判している訳だが、①「減税・給付5兆円」を実施すればどうして「スタグフレーション」になるのか?という批判の根拠が全く示されていなので、批判としてそもそも成立していない。そして、ここでも上で扱った記事と同様に、岸田内閣の政策が間違っている、というなら彼はまず5兆円を使って何をすべきか?という点についての自説を展開しなければならないだろう。
このように「論破王」の「論破」の実質は、①他人の意見に対する批判のみで構成されており、彼は自説を論じることはない。稀に自説を明らかにする事があったとしても、②それを正当化する根拠を一切示そうとはしない。つまり、彼は話を「甲乙両論のうちどちらがより説得力があるか?」を競う議論というステージから、「乙論のどこに問題があるか?」という①相手に対する批判だけにコメントを絞ることによって、意図的に争点をずらしているのである。彼のやっている事は平たく言えば「揚げ足取り」に過ぎず、これは一定の国語力があれば誰でも出来る。だからこそ、彼は「識者」でもないのに、あらゆる分野についてコメントが可能なのである。本物の「識者」であれば、自分が知らない、門外漢の事については黙して語らないのが言論人としての最低のマナーだと思うのだが。
3 「ひろゆき」が何を語ろうと、それは私がここで記事を書くのと等しく自由である。ただ、彼は「2ちゃんねる」関連の裁判で負った債務の支払いを免れるためにフランスに逃亡中という事を聞くと話は少し変わってくる。
借金を返す、というのは人が社会生活を送る上での最低限のルールだと思うのだが、彼はそのルールを守る気がないらしい。もし、貴方からお金を借りた知人がそのお金を返さなかったとしよう。貴方は借りた金を返さない知人をその後も信用するだろうか?それと同じことが「ひろゆき」にも当てはまる。社会生活における最低限のルールを守れない人間の言う事になぜ聞く耳を貸す人がいるのだろう。私にはそれが不思議でならない。
「ひろゆき」は国籍上は今も日本人なのだろうが、日本人としての法的なルールを守らない・守る気がないという点では、非国民に近い存在と言ってよい。わざわざそうした存在を取り上げて、ためにする批判だけの彼の言説を連日のように取り上げるネットニュースのあり方には、強い違和感を覚える。
ネットニュースは新聞と比べて政治的な偏向は少ないかもしれないが、その取り上げる記事にバランスを欠いており、また、記事の内容も非生産的でためにする批判が中心になってしまっている。例えば、今回の岸田内閣の「5兆円給付・減税」を批判する事は誰にでも出来るだろうが、では岸田内閣は何をしたらいいのか?という点について持論を有している人はどれだけいるのだろうか。
ネットニュースだけを見て育った人は、誰が内閣を率いようと、どんな施策を打ち出そうと批判しか出来ない、最終的にはこの国の足を引っ張る事しか能のない人になるような気がしてならない。
アメリカにおいては、トランプが大統領になって以降、民主・共和両党の間だけでなく、格差や移民の問題を巡って、国内が分断されてしまっていると聞く。日本の場合、2大政党制にならなくて良かったと思っていたが、政治的な枠組みを別にしても、新聞を読む人とネットニュースのみを読む人との間で世界認識の枠組みが別物になってしまえば、この国もアメリカ同様に社会が分断されて、両者の間に議論の成立する余地が失われて行ってしまうのではないか?ひいては、国政が停滞を超えてスタック状態に陥るのではないかと私は危惧している。