柔術とメリトクラシー

1 本稿を読んでいる方にはあまり馴染みのない言葉かもしれないが、メリトクラシー(功績主義)という考え方がある。
 10年程前NHKで放映された「ハーバード白熱教室」によって日本で一躍時の人となったマイケル・サンデル教授の最新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(2021年早川書房)はメリトクラシーの持つ問題点を扱ったものである。
 そもそもメリトクラシーとは、「社会的地位は能力と努力の反映であるとするもの」(同書p40)を意味する。
 『実力主義も運のうち』では、アメリカにおけるメリトクラシーの浸透が、アメリカ国民の間の不平等を拡大させて社会の分断を招き、トランプを大統領に押し上げる要因となった事を述べた上で、メリトクラシーの弊害とそれに対するサンデルなりの処方箋を述べている。

2 アメリカ社会の分断と柔術とは関係がないではないか?と言われそうだが、サンデル教授の議論は、BJJを始めとする(柔道やサンボを始め)競技化された格闘技にも広く当てはまる鋭い指摘を含んでいると思う。
 BJJの試合を例にとれば、階級別・年齢別に分かれているとは言え、基本的にはトーナメントにより、そのカテゴリーで最も優れた者を選別するシステムである。
 1位だけでなく、2位や3位も表彰台には登れるが、実際にはその名誉は優勝した者による勝者総取りである(準決勝まで進めなかったものは当然表彰台はおろか記録にも残らない)。
 こうした状況下で、「優勝という地位は、トーナメントを制した個人の能力と努力の反映である」というメリトクラシーの考え方を適用するとどうなるだろうか?
 確かに、トーナメントに勝つためには才能も努力も必要である。それが称賛に価することを私は否定しない。
 だが、試合に勝った者だけがBJJに関して発言権を持ち、試合に負けた者・試合に出ない者は発言を許されないという雰囲気は個人的にはおかしいのではないかと思う。
 そもそも柔術の世界選手権(ムンジアル)が始まったのが1996年、日本でJBJJFが設立されたのが1997年(注1)であるから、日本におけるBJJの試合が始まってからたかだか四半世紀しか経っていないのである。
 そうであるならば、「BJJの試合に勝つことは称賛に値する価値あることである」という考え方が日本に浸透したのはここ20年位の話で、試合に勝つことが称賛に値するというのは、極論すれば、たまたま柔術という格闘技の公式試合が存在する今現在に生きている事による偶然に過ぎないという事すら出来るのである。
 少なくとも、エリオ・グレイシーがリオで道場を構えて柔術を教えていた頃には、柔術の試合というモノは存在しなかった。
 試合がない時代に試合に勝つことが称賛されないのは当たり前のように聞こえるかもしれないが、むしろ試合に勝つことが称賛される今の時代の方が柔術の歴史の中では例外的だったとすら言えよう。
 また、視点を今現在に固定し、柔術の公式試合がある事を当然視したとしても、「BJJの試合に勝つことは称賛に値する」普遍的な価値を持っているとは思えない。
 サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(2010年早川書房)の中で、足に障害を抱えたゴルファーがアメリカのプロツアーでカートを使用することを全米ゴルフ協会に申請して却下された話が出てくる(同書p264)が、ゴルフに興味のない者にとっては「ゴルフがスポーツかどうか?その目的は何か?」という話はナンセンスで、所詮は運動会の玉入れと変わらない、と思った人もいるかも知れない。
 BJJの試合で勝つことに価値を認めるのも、あくまでBJJコミュニティに身を置いている者、あるいはBJJになにがしかの興味関心を有する者に限られる事を押さえておく必要があると思う。
 世の中に生きる圧倒的多数の人は、格闘技に興味がない。ましてBJJに試合があることすら知らない人がほとんどである。そうした事実を踏まえて考えれば、「試合で勝つことの価値」を声高に主張するのは控えた方がいいと思う。

3 BJJにメリトクラシーの考え方を適用した場合に問題となる点がもう一つある。「試合に勝ったのは、彼の才能と努力のおかげである」という考え方を推し進めれば、その裏面として「試合に負けたのは、彼の才能と努力が足りなかったからだ」という考え方に行き着く事になる。
 これは試合に負けた者にとって、精神的に非常に酷な考え方である。彼が試合に勝つために努力を重ね、私生活を犠牲にして来たとしても、結果が出なければ彼の努力は全く称賛の対象にならない。さらには、勝った者が負けた者を侮る・見下すといった風潮が生じてしまいかねない(「勝者の奢り」「敗者への蔑み」の問題)。
 ここである道場の帯昇格の基準を紹介しよう。
 「青帯:公式試合で勝利。紫帯:関東もしくは関西オープンクラスの大会での優勝。黒帯:全日本選手権での優勝。」
 帯昇格の考え方は道場主の柔術観を反映しているので、それについて私がとやかく言う資格はないが、上記の昇格条件は「結果だけで判断する」という非常に分かりやすい(=BJJをやっている者なら誰でも納得できる)反面で、基準として非常に厳しいと思う。少なくともこの基準では私は青帯も取れないのではないかと思う。
 特に近年BJJの競技人口の拡大と低年齢化によって、今後公式試合で勝つことは厳しくなることはあっても、優しくなることはないと思う。
 そういう意味では、10年前と10年後では同じ基準であっても、それを達成できるハードルが全く別物になっている可能性が高い(10年前の黒帯は10年後は紫帯すら取れないかもしれない)。
 そういう状況下で「試合に負けたのは、彼の才能と努力が足りなかったからだ」と言われてしまっては、彼は試合に勝てない&昇格出来ないという理由で練習のモチベーションを失ってBJJを辞めてしまうのではないだろうか、
 公式試合に関わる事で、視野が狭くなり、不当に自己評価を下げる事になるのは精神衛生上も好ましくない。

3 先に述べたように、エリオが柔術を教えていたほんの数十年前までは柔術に試合はなかった。
 そうした柔術の歴史を踏まえて考えるならば、柔術は試合が全てではない。誰のために、何のために柔術をやるのか?と聞かれれば、私なら「武術として、自分のために」稽古すると答えるだろう。少なくとも他人に評価されるために柔術を練習するというのは、試合で結果を出し続けなければいけないプレッシャーというモノとも戦わなければならないので、普通の人には勧められない。何度か書いているように私は「柔術の本質に還り、BJJを武術として再生する」事を目標に稽古を重ねている。

注1)https://www.jbjjf.com/about/jbjjf/

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