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浪費の美学
僕は元よりADHD(注意欠如・多動性障害)を持っており、月に一度「コンサータ」という注意力を高めたり、衝動性を抑えたりする効果のある薬を貰いに精神科に通院をしている。
このADHDにも色々タイプがあり、僕はいわゆる「不注意優位型」というやつに分類される。
字面からもイメージがしやすいと思われるが、要は忘れ物がとにかく多かったり、人の話を聞き逃してしまって状況把握がうまくできなくなるとか、簡単に言えば「笑えないレベルのドジっ子」と言ったところだろう。
ところで「障害とはなにか」と問われれば、僕は「日常生活に支障をきたす要因となるもの」と答える。
個人的に思うことなのだが、このADHDという障害は社会に出て働き始めてから「障害」としての真価を発揮しやがるものだ。
正直なところ僕は学生時代友人に「たぶんキミADHDだとおもうよ」と言われるまで、自分のことを障害者だと思ったことはなかった。
(僕がADHDを疑うきっかけとなった詳しいエピソードに関しては別の機会に預けたいと思う)
なぜなら、学生時代は僕が忘れ物をしようが、物を無くそうが、話を聞けなかろうが、一人で授業に関係のないことを考えてSSを書いていようが、その凡その責任は僕のみに降りかかるため「笑える不思議なドジっ子」としてキャラ立ち出来ていたからである。
それが社会に出て、実際に仕事を始めるとそんわけにはいかない。
僕の一つ一つのやらかしによる責任は自らに留まることなく四方八方に降り注ぎ、徐々に周囲の怒りと呆れを増幅させ、最終的にはどこにも居場所のない「笑えないレベルの障害者」になったのである。
僕は大学時代におこなっていた音楽活動を通して、あるインディーズ・スタジオさんからスカウトしていただいたことがあった。
そこで音楽活動をしてみたものの、結局上述したような特性もあり、そこで生き抜くことは叶わなかった。
また、それからは中学の頃の友人のお父様に誘われた清掃関係の仕事をやってもみた。
最初はよくしてもらっていたものの、繰り返す失念や動作的な要領の悪さ(いわゆる不器用)を目の当たりにして、最終的に人間関係が崩壊してしまい、縁が切れることとなる。
と、だいたいそれが24歳くらいまでの話であり、25以降になって「教育」という新しい仕事に導かれた僕は、今までの自分では考えることができないほどに職場で活躍できるようになり、「障害者」としての自分はこれまでと比べれば格段に影を潜めた。
しかし、29歳になった今、僕は新たなるステージへと突入することとなる。
先日「自立支援制度」という公費負担医療制度の更新をしていただいた際に、現在の僕の症状を現す「診断書」を受け取る流れとなった。
毎年の恒例行事となっているこのやりとり。
だが、特段例年と変わりはないだろうとぼんやりしていた僕の目に飛び込んできた文字を見て、僕は思わず吹き出してしまった。
(1)主たる精神障害 注意欠陥多動障害
うん。まぁそうだな。
(2)従たる精神障害 気分障害
ん!?
ー現在の症状及び状態像等ー
躁状態
行為心追・多弁・感情高揚・易刺激性
なんということだ、躁状態のチェック項目欄のほぼ全てにレ点が入っているではないか……
最近僕はどうにも調子が良くて、朝六時には強制的に目が覚めて、本を二時間くらい読み、仕事帰りには酒を飲みながら詩や短歌を詠み、家については家事をこなして風呂に入った後にはまた読書をしたり絵を描き23時くらいに眠る生活を行っていた。
日中激しく運動をした後に夜は電車を乗り継いで別の街に出向き友達と飲んで、女の子と遊ぶとかも平気でできたし、とにかくエネルギーが出湯の如く噴き出ており、とてもいい気分の日々だった。
それがなるほど……僕は躁状態に突入していたわけか……
精神疾患などの当事者となった場合、本人に病識がないことは少なくないというがまさに僕もその例に漏れることはなかったようだ。
さて、これまでは前置きである。
長い長い前置きであったため、読者の皆様には大変退屈な思いをさせてしまったことを想像して申し訳なくなる。
これまでは単なる障害者穂高の小話であるが、
これからは文士内浦穂高の美学の話である。
今回ADHDに加えて躁状態であるということが新たに分かり
時折やらかしてしまう莫大な浪費や大胆な行動も「ADHD+躁状態による衝動的なアクションである」という医学的根拠が得られてしまったわけだが、単にその解釈だけに留めたくないのが文士の性である。
もっと趣のある人間的な解釈で、僕という人間を見ていたいのだ。
というのも僕は僕の浪費に誇りを持っているし、この浪費は僕による意思決定なのだと信じている。
「美しいものを求める」
「食べたいものを食べる」
「飲みたい酒を飲む」
「可愛い女の子と遊ぶ」
全てこれは僕の僕による僕のための浪費であり、障害というシステムに僕の浪費の美学を奪わせたりしたくない。
浪費とは、生命の火柱をより巨大で美しい炎にするための儀式であり
生命の怠惰に対する激情の反逆である。
そして一度情熱的な浪費を行い一文なしの身となってしまえば、再び僕は次に金が入るまでの数十日間を地を這うように惨めに生きなければならない。
その間には冷たい夜風にさらされながら、己の感性を磨くべく読書や創作に励む。
そうして飢えと惨めさを耐え忍んだ上で、また激しく遊び、その遊びを創作の燈とする。
いかがだろうか、浪費とは一見パッパラパーに見えても、僕の中ではこの上なくストイックで、美しい、誇るべき慣習なのである。
僕は確かにADHDであり躁人間だ。
衝動性や多動性の塊のような人間である。
美しいものや面白そうなものには、チュールを目にした猫のようにすぐに飛びついてしまうから、貯金なんて一円もないし借金だっていつ返し終わるのかわからない。
それでも、借金やローンの返済も怠ることのない中で、修行のような浪費をつづけている。
積立だとかに手を出す予定は僕の中には一切ない。
システマティックな合理化の時代に
無機質な脳科学の時代に
僕はADHDと躁だけに僕の浪費の責任を追わせることなく、僕自身の選択として、僕の生命と魂の炎に薪を焚べて風を煽り、そうして僕の浪費に誇りを持ち続け生きていきたい。
これは、保身と合理化ではなく進撃と美学の人間観である。
さて、少々長くなってしまったけれども今回はこのあたりでペンを置こうと思う。
最後に一つ付け加えると、これはあくまで僕個人の人間観の話である。
僕は医者でなければ、この場において福祉家でもないし、全くもって公的でない根拠も再現性もない一個人として今回意見を述べた。
文学とは100%の主観による発信が許される数少ない読み物である。
有りはしないと思うが、僕の今回の話を恣意的に用いて、精神的に参っている人に根性論を持ち出すようなことはぜひしないでいただきたい。
僕はただ、自らの障害に自らの責任の全てを負わせたくないというだけであり
それを障害に負わせることは罪でもなんでもないし、別に(おそらく)本人の努力不足だとかそういう話ではない。
むしろこんな風に美学を語れる僕がたまたま極度に運が良かっただけだろう。
一歩違えば、僕はきっとこんな余裕なんかなくて、もっと冷たい地の底で恨み言を垂れていたに違いない。
信じるものはそれぞれだ。
僕はあくまで僕の美学と共に燃え尽きていく。
この言葉を締めとして、本稿に幕を下ろしたいと思う。