【それぞれの孤独】
孤独の前に人は皆、例外なく平等に悪人だ。
それぞれの孤独
誰も悪くなどなく だからこそ誰もが大罪人なのだ。
孤独の前に人は平気で嘘をつき、他人は愚か自分に対してすら世紀の大嘘つきとなる。
彼の孤独に寄り添うなどという言葉も、所詮は自分の孤独を紛らわすための大義名分に過ぎず、少しでも自分の寂しさを忘れるため、己の安定を図るため……誰もが孤独との惨たらしい戦いの中で日々もがいている。
人はエゴイストであって然るべきだろう。
エゴというのは可愛らしいものである。
幼児が自らに構って欲しくて泣き喚くような、そんな可愛らしいものだ。
孤独から逃れて、暖かく安心のできる世界を作りたいと願うのは、人間としての本能だ。
だから、人がそれぞれエゴイストであることは悪ではない。
そして、その上で人は自らの孤独から逃れ、幸福を手に入れるためならばどこまででも残酷で冷徹になれる。
他人を欺き、利用し、自らの幸福の糧にすることに心を痛めることからすらも目を伏せ、自分すらも欺き通す。
やはり人は、誰もが大罪人なのだ。
萩原朔太郎は『僕の孤独癖について』という随筆の中で、こう述べている。
『ショーペンハウエルの説によれば、詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるやうに宿命づけられて居るのであつて、且つそれ故にこそ、彼等が人間中での貴族であり、最高な種類に属するのださうである』
ショーペンハウエルは僕に誇りと勇気を与えてくれた。
変わり者の孤独な人であった僕を励まして、使命感の美酒により陶酔させてくれたものだ。
しかし朔太郎は、この随筆の中で最後にこう綴る。
『「孤独は天才の特権だ」といつたショーペンハウエルでさへ、夜は淫売婦などを相手にしてしやべつて居たのだ。真の孤独生活といふことは、到底人間には出来ないことだ。』
あぁ、どうだろう。
人はどこまで行っても……ショーペンハウエルであっても、ニーチェであっても、萩原朔太郎であっても、三島由紀夫であっても、人は孤独から逃れることはできない。
むしろ、哲学者や文学者などというのは生粋の孤独者でなければ、なり得ない。
僕の詩もエッセイも、結局は誰にも聞いてもらえない独り言だ。
世の人の中で聞いてもらえず、理解されない感覚を、世界中の人に聞いてもらいたいがゆえに文字を通して慟哭しているにすぎない。
常々僕は、哲学や文学や心理学などの人文学的気質を備えた人がニーチェの言うような「超人」になるということは、人文学というテーマの構造上ありえないことだと思う。
人について深く洞察することがなければ、真の意味での人文学者とはなり得ないし、人について深く洞察する人は人間と超人の間にかけられた綱渡りを制することができないからだ。
だから僕は、人文学の気質を有する人をいじらしく可愛らしいものだと思うのだ。
ところで僕は、その人が信頼できるかどうかを知ろうとする時、ある一つの質問を必ずする。
それは「死にたいなと感じたことはありますか?」という質問だ。
この質問の意図を直感的に読み取る人は、ある時は笑いながら「当然だろう」と答え、ある時は物憂げに「まぁ、ありますよ」などと答えたりする。
そして、この質問にまるでピンとこない人は、不思議そうにキョトンとした表情で首を傾げながら「んー……ないですね……」などと答えたりする。
人としての価値がどちらにあるかなどと言うつもりはまるでないのだが、人としてどちらが信頼できるかと言われたら、僕は前者の人たちだ。
よく、認知行動療法などの表面的な部分のみを切り取ってリフレーミングや思考の変換を試みる人たちがいる。
そういった人達は、ネガティブを絶対悪とし、ポジティブを唯一の善としがちだ。
だが、ポジティブとネガティブは表裏一体であるし、本当の意味で前へ進むということは、ネガティブを切り捨てることではない。
自らのネガティブを癒し、認めながらもそれをポジティブに重ねることだ。
例えば、「私は今死にたくて死にたくて仕方がありません」と泣いている人がいるとして、その人に対して「貴方は本当に死にたいわけではありません。今の現実が苦しくて嫌なだけなんです」と答えたとしよう。
仮に死にたいという気持ちは気の迷いで、冷静に考えてみたら本当はただ単にその通りだったとして、自らの懊悩を否定されたその人の感情は何処へ向かえば良いのだろうか。
その人の涙は誰が受け止めてくれるのだろうか。
しかし、今僕が述べていることも、わからない人には本当にわからないらしい。
先程の僕の質問は「死にたいと思ったことがあるかないか」が重要なのではない。
「死について深く考え抜いたことがなければ、生についての本質的な理解ができない」という主張であり、それを更に細分化して表現するなら、
「今あるその人の心に深く向き合える資質があるか」という点を見ているのだ。
そして、こういったことにピンとこない人は、超人になり得る資質があるし、逆にここに深く向き合えてしまう人は超人にはなり得ない。
誇ってよいことだ。
このエッセイの一番最初に「孤独の前に人は皆、例外なく平等に悪人だ。」と僕は綴った。
今はまだ死にたいと感じたことがない人も、今どんなに無邪気な人でも、真の孤独に晒された時には間違いなく幸福を欲してやまぬようになるに違いない。
超人が、なぜ超人なのか。
それは、部屋の隅っこで世界を楽しめるからである。
孤独な人なぜ孤独なのか。
それは、手を繋ぐ人達を見てしまったからである。
寂しく俯く孤独の人よ
今日の青空は綺麗です。
孤独に生きるその心は
ぐちゃぐちゃ黒く、美しい。
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