『どうでもいいこと』に生きる
『どうでもいいことにこだわる』というのは非常に人間的な営みだと思う。
人間の知識や文化は大抵が生命保存に直結しない『どうでもいいこと』への追求の繰り返しで建築されてきた。
人は飯を食べなければ死んでしまうけれども、別にラーメンを啜る必要はない。
人は種を残さなければ絶滅してしまうけれども、別に一夫一妻性である必要もない。
人は美学なんてものがなくても生きていけるけれども、しかしそうすると人として生きることに僕は意義を見出せない。
歴史の中で幾度となく繰り返されてきたこんな平凡な問答を、僕も僕という人間の歴史の中で何度も繰り返してきた。
『人は使命を持って生まれたわけではなく、偶発的に生まれたにすぎない。意味などは後付けなのだから、生まれた意味など考えずに生きる意義を考えよう」
こう結論づけたのは今からもう5年ほど前の23歳の時だったと記憶している。
人間は元来こんな面倒なことを考えなくても、食って寝てセックスをするだけの生活で動物としての生命活動は完結させられる。
だがしかし僕は動物ではなく人間として生まれてしまったし、人間として生まれたからには人間である必然性を持って生きていかねば僕が僕自身に納得することができないのだ。
生命保持の上では『どうでもいい』が芸術を行ううえでこういった『必然性』についてしっかりと向き合わないといつか僕はあらゆる活動に対するモチベーションがなくなり、放棄をしてしまうと思われる。
いや、もっと恐ろしく
まとまらない自分の感覚に比喩ではなく事実として殺されてしまいそうだとすら感じるのだ。
例えば僕はヴァイオリンを弾く
日本人に生まれたのになぜ琴ではなくヴァイオリンを弾くのか
例えば僕は詩を描く
日本人に生まれたのになぜ俳句ではなく詩を描くのか
これらはどちらも西洋のフレームをお借りしているものであり、日本人にとってこれらを無理に行う必然性は本来ない。
しかし、敢えて僕はこれらを選んでいる。
それはなぜなのか?
西洋人でない我々にルネサンスの開放感を心から理解することは難しいであろう。
従って教会音楽はもちろんのことルネサンス以降の音楽を肌感覚で演奏することは非常に困難であるし、ヴァイオリンという楽器をどこまで理解できるのかという点においても課題は山積みだ。
しかし僕はヴァイオリンのあの陶酔する音色に美しさを感じるし、なにか運命的な出会いを感じてならない。
詩においても同じように、やはり文学も日本と西洋では感覚が大きく異なる。
先日話していて印象的だった友人の言葉に
「デカダンからキリスト教を抜くといかにしょっぱいかってことだよ」
というものがあった。
彼は続けて
「西洋のデカダンは徹底的に神様からそっぽを向く。日本にはそれがないし……そして向こうのデカダンは血生臭い。ワイングラス越しに見る月のような感じだよ」
と語った。
たしかに澁澤龍彦氏も『快楽主義の哲学』の中で同じようなことを述べていた。
我々日本人には西洋における神の如く絶対的に聳え立つ存在はすぐにイメージできない。
いくらデカダンを気取って無頼派のフリをしても、昔から日本に根付いた『隠者』の生き方よりも自然に一匹狼の振る舞いをすることは難しい。
それでも僕は隠者よりも無頼派の詩人達の生き方をしたいし、そちらにこそ梅雨のような美を感じるのだ。
ヴァイオリンも詩も『ただやりたいから』というだけでも理由としては成立するのだが、そこにどうしても必然性を見出せなければ、自分の芸術はそこで止まってしまう気がしてならない。
そういえば僕はHip-Hopも好きで、一時期プロとしてラップ活動をしていたことがあったのだが、アレだってまさに同じだ。
どう頑張っても我々が感じられないゲトーの環境という壁が立ち塞がる中で、僕は僕なりのHip-Hopをどう造るのかということはずっと命題だった。
さて、ここで外せないポイントになってくるのが『日本人は生粋のアレンジャーである』ということだ。
まず、我々がこうして使っている漢字すら恐らく1世紀頃に中国から伝わり、長い時間をかけて今や完全に我々の生活に馴染んでいる。
冒頭に挙げた話題の中で出てきたラーメンだってそうであるし、カレーやカツ丼など身近な料理から和製英語のような言葉ですら日本人はとにかくなんでもかんでも他所から入ってきた文化を日本風にアレンジする能力が非常に高い。
日本風の「ラーメン」日本風の「カレー」があるように、実は「日本風のキリスト教観」も確実に存在しているはすだ。
という発想を以前からお世話になっているヴァイオリン職人さんとの会話の中でいただいた。
西洋のような絶対的な世界観としての神は日本にいないが、日本人なりの理解の中で西洋のフレームを取り込み、咀嚼していくことは可能だろう。
武満徹氏の音楽は西洋人が聴くとすぐに「自分たちにはない異質なものだ」という感覚に陥るらしい。
「世界では日本人の音楽家というと小澤征爾と武満徹の二台巨頭だ」という言葉を以前見たことがあるが、それほどに武満徹氏の音楽は「西洋のフレームを用いる必然性を持ちながら、日本人の感性を見事に落とし込んだ」という偉業を成し遂げたわけである。
彼の音楽が和楽器だけで構成されていたら当然このような旋風は巻き起こらなかったし、それはつまり武満徹氏が「いかにして西洋音楽のフレームを日本人が用いる必然性を創り上げるか」に熱意を注いだことの裏返しである。
なお気をつけなければならないのが、単に日本風にアレンジするのではなく西洋と日本の文化と歴史に最大限の敬意を払いつつ、その上で必然性を見出すということだ。
こんな多くの人から見たら『どうでもいいこと』が彼の芸術とその後の歴史に大きく影響を与えたように『どうでもいいこと』に対する『こだわり』は芸術を志す者は
いや
人間として生きることを願う者は絶対に捨ててはならない武器であるし、そこから世界は創り出されるのだと僕は信じている。
なので僕は今日も自分に問いかける
どうでもいいことに生きる
「なぜ僕はヴァイオリンを弾くのか」
「なぜ詩を描くのか」
「なぜラップをするのか」
「なぜ生きるのか」
「どう生きるのか」
それらの美学が導き出す答えが、僕の人生のそのものの答えとなるだろう。
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