腐敗の中にこそ、真実がある。 私の創作活動は 不可避な現象を見つめ深く考察することから始まる。 世の中は常に光や美しさ、成長といった肯定的なものに目を向けるが、私はその裏側に潜む破壊と崩壊、そして終焉にこそ真の価値があると感じている。 腐敗は避けられない運命だ。 すべてのものは、時間と共に劣化し、崩れ去る。 それは物質だけに限らない。 人の心も、感情も、理想も、関係性さえも 時間の流れの中で必ず変質し、最終的には消滅する。 私の作品は、その崩壊の瞬間に焦点を当てて
風邪をひいた。 世界がどんよりと灰色に見えるような気分だ。 喉が痛くて、声を出すと焼けるように痛む。 咳をするたびに体中が変になりそうで、 頭もぼんやりして、何も考えられない。 ただただ辛い時間が過ぎていく。 どうしてこんなことになったんだろう? 自分の限界を試してみたくなったせいかもしれない。限界まで無理をして どこまで耐えられるか挑戦してみたかったんだ。 おかしいとわかっているけれど、 なぜか挑戦しているみたいで、 不思議な充実感を感じるのが少し怖い。 今の自分
「明日はもう来ない」と思いながら生きることは 絶望と虚無感に覆われた日常の中で、 時間の流れさえ無意味に感じられる状態だ。 朝が来るたびに 心のどこかで「これが最後の日かもしれない」 と思いながらベッドから起き上がる。 未来に希望を見出せない感覚は、まるで深い霧の中をさまよっているようで、どちらに進んでも景色が変わらない。 何をしても無駄で、どんな努力も無意味に思えてしまう。何かを始めても、その先に待つのは失敗や後悔だけだという考えが頭を離れない。 周りの人々が前向き
自分の思いや感情を筆先に託していくうちに、 本当の自分がどこにあるのか分からなくなる。 完成した絵を見ると、それは間違いなく自分の作品なのに、自分の一部がそこに吸い取られたような気がして仕方ない。 絵に殺されたいと願うのは、ただ「楽になりたい」というだけの意味ではない。 それはむしろ、絵が私にとって唯一の居場所であり、唯一の形だったからだ。 思いを言葉にすることができず、誰にも理解されないただ絵の中で表現することだけが救いだった。 私は絵に支配されている。 絵を描い
作品のサイズが異なる理由は、 その中に描かれる感情の強さと密接に関連している。 特に、作品に登場する少女達の感情がその大きさに影響を与えている。 感情が強くなるほど、作品のサイズも大きくなるのだ。 たとえば、喜びや悲しみ、怒りなどの感情が深く激しいほど、それを表現するための空間がより多く必要とされ、結果的に作品が大きくなる傾向がある。 このように、サイズの違いは単なる物理的な大きさだけでなく、感情の強弱を視覚的に表現するための重要な要素となっているのだ。 作品のサ
愛。 それは本来、心を温め、満たしてくれるものだと言われている。 けれど、その実態はどうだろう? 愛は人を傷つけ、裏切り、そして絶望へと追い込む。最初は甘く、心地よいものであっても、その甘さが消えた後には、苦しみと孤独が残る。 愛に期待しすぎた自分が愚かだったのか、それとも愛そのものが偽りだったのか、結局のところ、愛は永遠に続く幻想ではない。 人は愛を求めるけれど、それは必ずしも互いを救うものではない。 むしろ、愛を求めすぎることで、自分自身を破壊してしまうことす
輝く瞬間。 誰もがそれを求め、追いかけるけれど、それはまるで儚い幻のように、手に届く前に消えてしまうものだ。一瞬、心が満たされる感覚。 全てが報われたかのような錯覚に陥る。でも、結局それは「瞬間」に過ぎない。長続きしないし、その輝きが消えると、残るのは圧倒的な虚しさだ。 輝く瞬間を経験したがために、その後の暗さが一層際立つ。まるで、夜明け前の一瞬の光が、より深い闇を引き寄せるように。 光が強ければ強いほど、その後の闇は冷たく、重く感じる。 輝いていた時間があったから
傷の舐めあいとは、互いの弱さを確認し合いながら、心の底にある痛みを共有すること。 だけど、それは本当に救いになるのか?互いに同じ苦しみを抱えているからと言って、それが軽くなるわけじゃない。 むしろ、その痛みが倍増するだけなんじゃないかと思う。 深い闇の中で、相手の悲しみを感じながら、自分の傷もさらに深くえぐられるような感覚。 私たちは、何度も何度も同じ話を繰り返しては、お互いに「わかるよ」と言い合うけれど、その「わかる」という言葉が空っぽに響く。 結局、誰も本当にわ
フィクションの世界は、現実から逃れるためのものだと言うけれど、その中に潜む暗い影に気づくことは少ない。 物語の中では、何もかもが都合よく進むように見えるが、裏側には常に絶望と虚無が待っている。 登場人物たちは、自分たちの運命を自ら選ぶことができない。 誰かによって書かれたシナリオに従うだけで、その先にどんな悲劇が待っていようと抗う術はない。 フィクションの世界では、希望も夢も存在するかのように見えるが、全ては作り物。 どれだけ美しい未来が描かれていても、それは単なる
正解が分からない。 どんなに考えても、どんなに努力しても、結局何が正しいのか見えてこない。 人生の選択肢は無限にあって、どれを選んでも、後から振り返れば「間違いだったかもしれない」と思ってしまう。 正解なんて、そもそも存在するのかさえ分からない。 周りの人たちは、自分なりの「正解」を持っているように見える。 成功している人たちや、満足しているように見える人たちは、自分が選んだ道が正しかったと信じているのかもしれない。 でも、自分はどうだろう?何かを選ぶたびに、必ず
ずっと見てる。 いつも、どこかで誰かが見てる気がする。 何をしても、どこかで評価されていて、批判の目が離れない。その視線は冷たく、無関心なのに、容赦なくて、心の奥にまで刺さってくる。 どれだけ自分を隠そうとしても、失敗すればすぐに笑われ、成功すれば嫉妬される。 自分らしくいることなんて許されない。 人はいつも見てるけど、理解はしてくれない。自分が苦しんでる姿も、必死に何かを頑張ってる姿も、全部ただの観察対象でしかない。 どれだけ孤独で辛くても、誰かが本当に手を差し伸べ
どれだけ頑張っても、結局無駄になることが多い。 自分なりに一生懸命やっても、結果はいつも期待外れ。何をしても、誰かに批判されて、努力なんて評価されない。 たとえ耐えようとしても、いつかは限界がくるし、結局、心も体もボロボロになる。 他人の目を気にして、自分をすり減らしても、感謝なんてされないし、むしろ当たり前に思われる。自分がどんなに傷ついても、それに気づく人なんていない。 声を上げたところで、誰も本当に助けてくれるわけじゃないし、むしろ弱いと思われて、さらに見下され
邂逅というのは、 偶然の出会いを意味するが、その裏には必ずしも希望や喜びだけが存在するわけではない。 むしろ、予期せぬ出会いがもたらすものは、 しばしば混乱や後悔、そして苦しみであることも少なくない。 人と人が出会う瞬間は、人生の軌道に新たな道を開くこともあるが、その道が必ずしも幸せに続くとは限らない。 思い返してみれば、幾度となく経験した「邂逅」が、私の心に傷を残してきた。 初めは期待と興奮に満ちたものだったが、時間が経つにつれ、その出会いは幻であったことに気づかされ
青い鳥症候群―― 一見美しい響きを持つこの言葉の裏には 絶え間ない不満と焦燥感が隠されている。 この症候群に陥ると、現在の生活や状況に満足することができず、常に「もっと良いものがあるはずだ」という思いに取り憑かれてしまう。 だが、その「もっと良いもの」は、実際にはどこにも存在しない可能性が高い。 結局、人は幻想を追い求め、手の届かない青い鳥に踊らされているだけ。 この症候群に悩まされる人々は 日常に満足できない。 たとえ仕事が順調でも 友人関係が安定していても 何か
純愛とは、かつて純粋で無垢なものとされ 汚れなき感情として尊ばれてきた。 しかし、現実の世界において 純愛すらも汚れて侵食される運命から逃れることはできない。 最初は心からの信頼や献身が基盤となって築かれた関係でも、時間が経つにつれて、微細な不安や疑念、欲望がその清らかさを徐々に蝕んでいく。 愛する相手に対して抱く期待が膨らめば膨らむほど、満たされない部分が目につき純愛の理想と現実との乖離が不協和音を生み出す。 その結果、最初は些細だった不満が次第に心の中で大きくなり
硫酸。 それは破壊と腐食を象徴する物質。 触れた瞬間、肉を焼き、 骨さえも溶かす力を持つその存在は、まるで心の中に潜む暗闇そのもののようだ。 内側も、まるで硫酸がゆっくりと侵食していくように、時間とともに崩れ、失われていく。 生きることが苦痛だという感覚は、 まさにこの硫酸のように、じわじわと、しかし確実に心を蝕む。 朝起きるたびに、その感覚は少しずつ重く、 痛みは鋭くなる。希望など、まるで幻想だ。 何かを求めても、必ず失望が待っているだけ。毎日の繰り返しが無意味に