「親ガチャ」論を悲しむ者らへの怒り

自分が毒親生まれであることについて何度か書いていたせいか、トピックに「親ガチャ」についての記事が出てくるようになりました。中には「『親ガチャ』なんて考え方をする人そのものが悲しい」と綴る記事もありました。

勿論根本的な話として自分の母親のような毒親の話題を碌に見ていないのだろうと思われます。恵まれた親の元で育ったが故の甘え腐りであるとも感じます。

一応自分も子育てが大変であることだけは理解しています。経験したことが無いが故に憶測ではありますが、少なくとも「その大変さは不勉強な自分が筆舌してはいけないだろう」というレベルだと感じています。先のリンクを読んでいただければ母が毒親であった原因は「愛情が行き過ぎて暴走してしまったため」であるため、自分は曲がりなりにも愛情深い親の背中を見て育ってきました。そしてそれが故に「よくはわからないが大変でしかない子育て、自分はやりたくない」と子供の頃から感じるほどでした。それだけ子育ての大変さは感覚に沁みついているのです。

ただ、子育てが大変だから何だと言うのでしょうか。子育ては大変、だったら生まないという選択もあるでしょう。子育ての大変さなんて親でなくとも周りからいくらでも聞く機会はあります。親は生まないという選択権もそれを考える時間もいくらでもあるのです。それに対して子は「どんな親の元に生まれるか」以前にそもそも「生まれるかどうか」すら選べずいつの間にか生きているのです。

親は子こそ選べないが生むかどうかは選べる。子はどんな親かどんな自分か以前に生まれるかどうかすら選べない。これは覆せない現実です。選択権の優位性が圧倒的に親側にある以上、その責任が親の側にあるのは当然のことです。

ちなみに「子供は生まれる前に親を選んでいる」なんて書かれた記事すらありました。もうね、妄言も大概にしろの一言に尽きます。百万歩譲って子供の意思が働いているとしましょう。この「生まれるかどうか」は選択の重みが小さいはずがありません。車を買う、家を買う、そんな「大きな買い物」すら比にならない、人生最大の選択と言っていいでしょう。車や家を買ったり犯罪行為に手を出したり、そういった事に対する「責任能力」が年齢で区切られていることも知らないのでしょうか。ましてや「生まれるかどうか」という絶大な選択に責任を取れる能力があるとでも思うのでしょうか。

仮に百億歩譲って責任能力ありと見做したところで、では「その親の元に生まれない」という選択は、イコール流産・死とは違いますか。もしあなたが「毒親の元に生まれるか、死ぬか」の選択を突き付けられた時に「死ぬ」ことを選べますか。また、流産して悲しんでいる親に対して「あなたは選ばれるような親ではなかった」と言うことに繋がりませんか。こういう超自然的なものの考え方は、表向き一の優しさの後ろで百万も千万も傷つけ害を為す考え方です。到底看過することはできません。

以前も言った事ですが、例えば何千年も前に孔子が「孝」を説き、近い時代でも教育勅語等でも言われる「両親を大切にしましょう」との教えは、古今東西「普遍的」と評される考え方です。それに対しこうして疑問を呈すことは数千年の禁忌に触れかねない考え方かもしれません。ですが自分はどんな禁忌だろうと自分の善悪で判断し、記事を書きます。

勿論あなたの親が尊敬でき、感謝できる人物であれば、大切にすべきです。ですがそういう恵まれた方に忖度して、苦痛の中にいる方への救いとなる概念を封じようとするなら、それほど卑劣なことはありません。実際「『親ガチャ』なんて悲しい考え方だ」と言う方の何を傷つけたのか、言う方は苦痛の中にいる方の何を救えたのかと言わずにはいられません。

繰り返しますが自分はどんな禁忌だろうと自分の善悪で判断し、記事を書きます。独善は誉め言葉です。そして読者の方々がどう思うかもそれぞれの方の善悪であり、言いたい方は自由に仰ってくださって構いません。自分の善悪、あなたの善悪、並べてみて新たな気づきの機会になる可能性もあるかもしれません。勿論何にもならないこともあるかもしれませんが。

何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。


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