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「シン」の系譜1-2
俳諧の新しみ
漢字の「新」は、左側が「立」と「木」つまり立木や山林をあらわし、右側の「斤」は斧を意味した。斧を振るって山野を切り開き、領地を拡大する開墾から造形されたのが「新」の字だった。
江戸時代の開墾に関する「新」といえば「新田開発」であり、とりわけ8代将軍・徳川吉宗による享保期の新田開発が名高い。「新田」に次ぐ「新田」が開墾され、「新新田」という言い方まで使われた。これらの語を地名や人名のあとにつなげて、何々「新田」と称した村が武蔵国(東京都)全体で400近く存在した。昌平坂学問所の地理局が記録した武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』(文政13年、1830成立)に、そのことが記録されている。従来のような「古」に対する「新」と異なり、「新」に次ぐ「新」の展開は絶えず新製品が生み出されていく現代社会の「新」に通じる部分がある。
享保期に先立つ元禄期には、文芸の世界でも「新」をめぐる動きが生じていた。俳諧(のちの俳句)では「新」なる発展の可能性が模索され、その先頭に立っていたのが松尾芭蕉だった。伊賀国(三重県)上野で生まれ、30代の初め頃に江戸に出ると、俳諧師の道に進んだ。延宝8年(1680)に市中から退いた芭蕉は、深川に草庵を構えて隠遁生活に入った。当初は気心の知れた門人や知人に支えられ、しだいにその句風が評価され、のちに継承発展を担う蕉門が形成された。
彼らの間で新作がつぎつぎに詠まれ、俳風の継承発展につながっていた。むろん個人的な創作活動なので、現在の理数系の学術のように純粋に蓄積・更新されていくタイプの継承発展ではない。それでも当時の俳諧では、「新」による改善が自覚されていた。その意味で俳諧は、進歩思想の萌芽を感じさせる最先端の分野だった。
いにしえの和歌や連歌の歌人たちと同じく、芭蕉も創作芸術の担い手として歩み始める中で「新」のあり方を模索した。深川に移った頃にまとめられた『常盤屋之句合』(延宝8年、1680奥書)に記された初期の俳論にも、すでに言及されている。書物自体は門弟の杉山杉風による句合集で、「句合」とは歌合の形式にならって2首を左右に並べて優劣を競うことをいう。芭蕉の跋文(あとがき)にある言葉が、名言として知られている。
「倭歌の風流代々に改まり、俳諧年年に変じ、月月に新たなり」
かつての和歌の「風流」は代々にわたって「改まり」、俳諧も早いサイクルで「新」が生み出されてきたとある。「改まる」とあるアラタは、今でも「新たに」と使う「新た」と同一語源であり、しかもその動きが「年年」どころか「月月」のハイペースで発表されていった。かつてない回転の速さは、現代人が思い描く日進月歩のペースに通じる。同じ「月」でも、一定のサイクルで毎回めぐって来る伝統的な「新月」の感覚とは異質だった。
そのような「新た」の感覚が結実したのが、「新しみ」だった。芭蕉自身は元禄7年(1694)に病没し、以後、弟子たちによって積極的に発信されている。服部土芳の筆録とされる『三冊子』(元禄15年、1702頃成立)には、「新(し)みは俳諧の花也」が出ている。彼らが唱えた俳論に見える「新しみ」は5、7、5の創作活動を実践する上で目指すべき課題に掲げられていた。たったの17文字しかないコンパクトな文学は、他の学術や文芸にくらべると量産しやすく、短期間のうちに「新」の水準が向上していくさまを実感しやすい。過去に例を見ない発達を目の当たりにした当時の人たちは、「新」に未来像を思い描きやすかった。
芭蕉の「新しみ」については、高校の古文や日本史の授業でも教わる場合がある。現代語の「新しい」や「新しさ」にくらべると、末尾の「み」の部分がやや印象的に響く程度かもしれない。「新しい」ことに対して、当たり前のように新鮮味が付随している現代人の言語感覚からすると、何の特徴もない表現に聞こえる。しかしこの言葉が蕉門によって標榜され始めた元禄期の人びとにとっては、耳にしたことのない新奇な響きと受け止められていたのだろう。それは「新しさ」の新解釈でもあった。芭蕉本人だけでなく、蕉門によって「新しみ」の探求姿勢が継承され、江戸時代を通じて広く知られた意義は相応にあったように思われる。
弟子の向井去来による『去来抄』(元禄15年、1702頃-宝永元年、1704頃成立)も、『三冊子』と同じ頃か少し後に書かれた。その中で去来は、「俳諧は新意を専(ら)とす」と述べている(「修行教」)。「俳諧は新敷(あたらしき)趣を専(ら)とす」ともいい、「新」の重視が踏襲されている。問題は、芭蕉という偉大な師匠を超えた「新」を目指すかどうかだった。
同じ「修行教」の末尾の一節には、芭蕉の友人だった山口素堂の名が出てくる。その一節によると、今年になって素堂が去来に語りかけた。現在は芭蕉先生亡き後の「遺風」が世の中に満ちているが、いつか変化するときが訪れる。もしあなた(去来)に志があるのなら、私と一緒に「一(つ)の新風」を起こそうではないかと誘われた。そうして声をかけてくれたことに、かたじけないと謝意を伝えてから、去来は答えた。私も以前、そのように思ったことがないわけではない。ありがたい芭蕉先生の後ろ盾によって「二三の新風」を起こせば、世の俳人たちを驚かすことができるだろう、とある。しかし去来は、秘めた自負を抱きながらも多忙と老いによる衰弱のために、協力するのはむずかしいと辞退している。
去来と素堂のやりとりに見られる「新風」には、江戸時代なりの特色があった。とりわけ「一(つ)の新風」「二三の新風」のように、指折り数えられる個別の「新風」になっていた点に特色がある。これは「新風」の規模と呼べるものが、数えられるほど具体化ないし個別化されていたことを物語っている。
しかも「二三の新風」とは、ひとつの「新風」のつぎにまた別の「新風」を巻き起こせることを意味している。これもまた「新」に続く「新」の実例であり、連続して更新されていく現代的な「新」の先例になっている。たった一度の「新」では伝統的な「遺風」を乗り越えられないが、いくつも巻き起こせば道は開けるといった展望なのだろう。
和歌や能楽といった伝統的な文芸の領域では、長らく「風」の字が重要なキーワードになってきた。世阿弥の『風姿花伝』の題名にも、真っ先に「風」の語がある。和歌でも能楽でも、伝統的な「古風」に対する現在の「新風」が位置づけられ、つねに「新風」の方が素晴らしいと受け止められていたわけではなかった。むしろ時代の差を超えた「本風」が望ましいとする声も多々あり、むしろこれなどは「新」と「真」を掛け合わせた今の「シン」に迫る部分さえあった。しかし従来は、「新」の字に依拠して真実味が語られていたわけではなく、「新」から「シン」への道のりは思いのほか険しかった。