生きるということ
26歳、東京都在住。
僕はまだ、何者でもない。
社会で生きていく上で大切なルールがある
時間を守る、という事だ
"それ"が、どれだけ自分を助けてくれる事なのか頭では理解している。
だけど、僕の身体はそれを拒否する。
僕の心はほんのたった少しの誘惑に、いとも簡単に負けてしまうのだ。
この前通りすがった手相占い師に言われた。
君は他人に合わせる事が無理で、ひどい気分屋でしょ?と。
そんなわけが無い、僕は他人に合わせられるよう工夫をして来たし、気分屋な人間が他人に好かれ難い事も知っている。
あれ?
僕はその事柄について理解し工夫して生きて来た?
つまり、おそらく本来はそうなのである。
そういえば小学生の頃、友達の趣味に合わせたつもりが全く的外れだった。みたいな事があった。
僕は嫌われる事は避けられる事だと思っていた。
だけど、何をしても批判はされる。
どれだけ対策を練っても十人十色。
人に出会えば出会うほど、僕の対策はことごとく崩れていった。ぼろぼろぼろ
心優しい親友は時間を守れない僕にこう言った。
働かせて貰うという事は、お金を貰っているのだから、それ相応に時間を守る事は当たり前だよ。
その通りである。
ごもっともです。
何の反論もなかった。
でもそれだけじゃ僕の中の何かは納得してくれなかった。
"こいつは何を甘えているんだ?"
世の中にこの僕の、いくら納得の出来ない旨を訴えても
意志の弱い人間として認識されるのがオチだろう。
実際にそうなんだと思う。
僕は意志の弱い人間だ。
だからこそ僕は考えた。
僕だけの方法を探すために。
'なぜだろう、なぜだろう。"
そうして今日、辿り着いた。
僕はお金に価値を見出せていない。
それは自分の力で大金を稼いだ事が無いからなのかもしれない。
時間やお金がどれほど大切なものなのか知らないからなのかもしれない。
だけれども
少なくとも今の僕は、偉そうな話しではあり恐縮だが、お金以上に雇い主がどのような人間性を持っているのかで、その人の元で働けるか否か判断している。
ある偉人が、"名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意は全く別物なり"と言った。
地位と人柄は別物だと言うことだ。
世の中が人と人が繋ぐものである限り、マイナスな性質すらも補い合って行く必要がある。
僕の好きな言葉に、"和を以って貫しと為す"というのがある。
議論が出来るくらいに互いを尊重し合う協調性を持ちなさい。と言う十七条憲法の第一条である。
協調性のみでは成り立たない。
他人の尊厳を理解しあって議論の出来るような環境を作り出す事が世の中には必要不可欠である、と僕は思う。
(※僕がそれを出来ているかは別問題だよ!)
この能力がかわれた時に初めて、その対価として、今の時代では金と言うものが発生する。
逆に言えば能力をかわれなければ対価も貰えず、その能力の中に、遅刻をしないだの返事が早いなどの評価が含まれる事も、信頼を構築するためには必要な要素なのだと言う事も理解しなければいけない。
信頼を失えば、周りから人は離れていき孤独になる。
しかし孤独は人を強くする。
このままでは生きられないと判断すれば、また別の方法で明日を始めれば良いんだ。
実際に、人が離れていくのを僕は経験している。
信用をポロポロ落としながら歩いていくのは、なんともつらいものだ。
そして僕は____
____無理するのをやめた!
僕は僕が立派だと思う人間になれれば良い。
評価や結果は後からついてくる。
他人へ愛を持って労力を注げる人間かどうか。
他人ではなく、自分が納得のできる人間であるべきだ。
人間には人間の数だけの正義が、この世には存在すると思っている。
つまり全員は己の信念に沿って正しく生きている。
僕に他人を批判する権利はない。
誰にも他人を批判する権利はない。
パワハラが問題になった時
僕は愛を持った指導ならむしろ必要なのでは無いかと思った。
今は気が付かなくても後々そいつの人生のためになるのであれば、それは決して不要な事では無いのではないか。
腫れ物扱いしてやる方がそいつの人生をダメにするんじゃないか。
僕は小学生の頃からおばあちゃんに"マカロニは優しい子だね〜"と言われて育ってきた。
言霊があるように、僕は優しい子でいなければいけないんだと自分で自分を洗脳していった。
しかし、ある時に気づく。
"僕は本当に優しい人間か?"
人間には表と裏がある。
優しさがあるのなら残酷さも必ず持ち合わせている生き物なのだ。
しかし、僕は知らなかった。
酷い考えを持つ自分がこわくなった。
僕は優しい子じゃない、と自分の中でカルマが生まれた。
今思えば、どれだけ残酷さと優しさを天秤にかけたとしても、僕は優しい人間に見えたと思う。
それは残酷さへの抵抗の賜物であるし、立派な人間を模索して葛藤して辿り着いた僕の形である事には変わりはない。
しかし、勘違いしてはいけない。
善があれば、必ず両極の性質を人間は持ち合わせているんだという事を。
仮の例えだが、僕の場合は優しさで言う残酷さをまだどこにも発散できないでいる。
とは言っても、残酷さが僕を支配する事はないのだから、問題は無い。
でももしかすると精神衛生上、両極の性質を自ら認める機会があれば、もっと楽に生きられるのではないか。
そんな機会とはどこにあるんだろう。
そうだ、
芸術だ。
芸術は自由だ。
僕は"芸術は心を豊かにする"と、しばらく言い続けてきた。
それは心の束の間の安息地として必要であると言う意味であったが、ここに来て新たな結論が出た。
自分の両極端な性質を落とし込んで日常の自分を保つために、芸術は非常に合理的な役割を果たしてくれるのではないか。
だからこそ、昔から芸術に触れて、自分で自分を表現すると言う事が、極めて重要になってくるのではないだろうか。
人のフリ見て我がフリ直せ。
人のフリ見て我がフリ真似る。
堕落した人間がカルマに苛まれて命の行く末を見誤らないように、自由な発想を持つためには、相応の教育が必要なのではないか。
そしてまた、それを考えると言う事は自分を見つめ直す機会にもなる、非常に大切な時間になるのではないだろうか。
僕は人生において、思い悩む事は必要だと思う。
堕落する事は、そんなに悪くない。
それを受け入れて乗り越える力がある限り、僕は何度でも堕落して立ち上がりたい。
何度でも、哲学すること。
自分と向き合い続ける事。
それを発信していくこと。
それが、まだ何者でもない僕にせめて出来る
"未来のためにできること"だ。
ここまで読んでくれてありがとう。
マカロニ