「サイコパス(仮)」
同じ精神科医の友人と遊んでいたときに言われた一言。
「nanacoもじゅうぶんサイコパスだよ、だいじょうぶ」
その彼は私を昔からよく知っていて
私もその彼の言語化や表現力に一目置いていて
彼の非常に強い自己愛を差し引いたとしても
彼は私に対して利害関係がないため私を客観視してくれていると思っている。
わたしは患者さんとのやり取りに日々個人的な精神をすり減らしている自覚があり、
特に最近は「精神科医はどうして夜になると街に繰り出すのか」「精神科医はどうして多彩な趣味に没頭するのか」という長年の疑問に対して
シンプルに
「毎日何時間も誰かの悩みを聞き続けてたらそりゃめっちゃ疲れるでしょ!!」
という回答を得るようになった。
かく言う私自身もここ半年ほど、「飲み会に行きたい!!」欲が強まっており、それは「誰かにこのうっぷんを晴らしてもらいたい」「お酒でこの疲れを紛らわしたい」などとほぼ同義だ。
精神科医の仕事は
人の話を十分に聴いて、そしてそれに共感することがまずはメインで、
必要に応じて少しアドバイスをしたり、本人の気づきを促すことがある。
時にはとても厳しい局面に遭遇することもあり、緊張感や言葉の選び方への慎重さも常に求められる。
一言一言の言葉を無責任に発しないようにしていると、
数時間の診察が終わった時、
衝動的に
「うぁーつかれたーー!!!」とか
「もう~どうすんのよー!!」とか叫びたくなることもある(もちろん叫んだことは一度もない)。
究極のところ
きれいな顔の利害関係ゼロの男の胸に飛び込んでニコニコ顔で
「エッチしたいーー!!」とか
「ねえちんちん入れて!!」とか
無責任なことも言いたい(それは言ってる)。
で、話が本題に戻ると
例えば
今すぐにでも自殺しそうな患者さんが目の前にいるとき、
大変な家族とやりとりしなければならないとき、
職場での様々なゴタゴタに巻き込まれたとき、
など、私は個人的な神経をすり減らしていると感じていた。
そのせいで、
精神科医であるにも関わらず
夜中まで悶々と眠れなかったり
家での晩酌の酒量が増えたり
夜中に仕事のメールをカタカタ打っていること日も多々ある。
でも、
精神科医の友人からすれば「nanacoもじゅうぶんサイコパス」とのこと。
(もちろん仕事でも家庭でも思い当たる節は多々ある。)
サイコパスは精神科医に(というか医者に)ある程度不可欠な要素で、
私はサイコパス性を長年の経験から獲得したともいえるし、
もともとあった小さなサイコパス性を拡大させてきたとも言えると思う。
他人にある程度無関心でいることや、
他人と自分の境界線を引けることは、
日常生活でも医師としてもとても大事な能力ではあるから、
そういう意味の「サイコパス」は本来いい意味でつかわれるべき言葉だと思っている。
これこそが真のメンタルの強さにも直結する。
だれかの苦しい状況に共感は出来る。
だれかの苦しい状況を想像も出来る。
だけど、そこから先は他人事。
こうしないとやっていけないのだ。
(だから本来の疾患的概念での「サイコパス」ではない。)
恋愛においてもそう。
なんだったらTinderでもそう。
誰かの人生を自分が変えることなんて本来は出来ない。
誰かの気持ちを自分が塗り替えることもできない。
自分がただそこに存在して、
自分の気持ちがそこに存在して、
相手も同様に存在して、
それが永遠に交わっているようで決して完全には交わらないまま
「恋愛」という交差点に立ったり、電車に乗ったり、駐車場で休憩したりしているだけ。
すこしでも誰かと長く、そして同じように交わりたい、と思うのは自由で、
だけど
それを誰かに強要してはならない。
サイコパス(仮)で居続けることが本当に出来るようになれば
人生も無敵になることは頭ではわかっている。
ここ半年ほどのわたしのテーマは
「気高く」だ。
それはつまり、
適度なサイコパス性を持つこととほぼ同義。
いつか本当のサイコパス性を手に入れたい。