ティツィアーノの図像学的分析
① ティツィアーノの『ウルビーノのウェヌス』の記述
一糸まとわぬ女が穏やかにこちらを見ている。
視線には嫣然としたところもなく安堵しきったようで微かに首をかしげるようにして口元に笑みをうかべている。
ベッドに半身になって横たわる女はクッションに寄りかかり、枕に頭をもたせながら両足を組み、下になった右足を持ち上げ、その太ももと凭せ掛けた左手でその陰部を隠すようにしているもののほのかに上気したように血色の良い滑らかな裸体を惜しげもなく晒し、羞恥の色も見せない。正面からの外光に明るく照らされている。右手のブレスレットと左の小指を飾る指輪だけが彼女の装身具だ。
結い、編み込まれたブロンドはそれでも豊かな房となって肩を覆う。
シーツは乱れ彼女の足元には白地に茶の斑の毛並み豊かな犬が静かに眠っている。
カーテンのような間仕切りが半分仕切る先のタイル敷きの奥の部屋には女中風の女がいくつか並べられている長持の一つをひざまずきながら覗き込み何かを探している様子だ。もう一人の女は腕をたくし上げながら長持を覘く女を見守る。
この奥の部屋には間仕切りが半分しか閉まっておらず手前の女の寝台に横たわる部屋と自由に行き来ができる作りになっている。
奥の部屋の壁には一面を覆うようにタペストリーがいくつも飾られている。
薄暮なのか、窓外の景色はいくらか暗く窓辺におかれた鉢植えにギンバイカが生けられている。
② 作品の解釈
女は何者なのか。
画中には薔薇、ギンバイカというウェヌスのアトリビュートが描かれている。
それでは女はウェヌスなのだろうか。
しかし、そうであるならばなぜ、ここは海の泡の上でもなく、世俗的な空間なのだろうか。
ここでは同時代の誰かの居宅の中の様子が描かれていることでもあり、また、女の肌が白磁のような美しさではなく健康的に発色していることも考え合わせるならば女は血の通った生身の人間を示唆していると考えるのはごく自然な事であろう。
そこで描かれた誰かにウェヌスのイメージを重ねて描いたのではないだろうか。
画面の構成として間仕切りがあることで額縁のこちら側と女の寝室が連続しており、女中たちのいるタイルの間からは切り離された私的空間に女と二人いるような感覚を私たち鑑賞者に抱かせる。加えて私的空間を共有していると思わせるのは無防備な姿をした女の穏やかな安らぎ切った表情と犬が警戒感をかけらも抱くことなく眠っていることだ。
また、犬の寓意は忠誠であり、女へ忠誠を尽くす存在である犬が鑑賞者に警戒せず眠っているということは女と鑑賞者の関係が親密なものであることを暗示している。
ここでいう鑑賞者とは注文主を想定したほうがいいかもしれない。
ところでこの絵はポルノグラフィー的な役割を担うべく描かれた可能性はなかったのか。
私はそうではないと思う。彼女からは媚態めいたものが感じられないからだ。また、間仕切りもろくにしまっていない奥の部屋には女中が二人いる。鑑賞者の視線は自然とこの奥の部屋にも向かうように構成されている。ポルノグラフィーとするならばその画題にとってこのような視線の誘導は邪魔である以外の何物でもあるまい。むしろ日常的な生活空間のただ中にいるのだというその感覚こそがこの絵の主題にかかわってくることのように思われる。
したがってポルノグラフィー的な要素はないと結論づける。
いっぽうでポルノグラフィーでないとはいってもそのことは性愛を描いていない、ということとは同義ではないとも思う。
そしてジェイムズ・ホールの『西洋美術解読事典』のウェヌスの項によると「ルネサンスの人々にとって、裸体とは清純・潔白を意味していた」とある。
つまり今日われわれが思っている以上に生殖がもつ根源的な力は神聖視されもしていたし、この日常の生活空間、家庭の中におおらかに笑みを浮かべて横たわるこの裸体の女は、とりもなおさず鑑賞者をして天上の永遠の愛へと昇っていく階梯に誘う存在とみなされていたのではないかと思う。
マーク・トゥエインが下品なものとこの絵をこき下ろしたことにせよ、マネがこの絵に着想して『オランピア』を描き画中の娼婦の足元に犬ではなく猫を置き扇情的な要素を描きこんだのも、近現代の裸婦観、性愛の意味もルネサンス期からどれほど変わったかが如実に表れたエピソードだろう。