申智埜翁(Xin chào)  

文芸批評や旅エッセイ、美術、哲学の話題を少しずつ少しずつ投稿していきたいと思っておりま…

申智埜翁(Xin chào)  

文芸批評や旅エッセイ、美術、哲学の話題を少しずつ少しずつ投稿していきたいと思っております。

最近の記事

ダダイズム、未来派。塚原史『言葉のアヴァンギャルド』について

 塚原史『言葉のアヴァンギャルド』(講談社現代新書)は、20世紀の前衛詩に通底する<切断の意識>に迫る。過去との切断であり、意味との切断である。前者はマリネッティの未来派であり後者はトリスタン・ツァラの『ダダ宣言』にはじまるダダイズムである。詩は存在論的問いかけから記号論的問いにかけに変容していった。マリネッティはレーシングカーにはじまる新しい美によって世界が豊かになったことを高らかに宣言し轟音を発し疾駆する自動車の、速度の美を示す。それは言葉の開放とも結びつく。文学における

    • ラカンの精神分析批評とポー「盗まれた手紙」

       精神分析批評とはフロイトの発見した人間の意識の下位構造であるイドに抑圧され変形されたもの読み取る精神分析やトラウマによる神経症的症例、反復脅迫を様々な芸術作品を読み解く際に応用する批評である。また、そうしたフロイトの理論を継承したラカンの場合はそうした無意識の表出する夢なども解読すべき言語のシステムととらえている。言語とはラングに基づくシニフィアンのシステムであり、フロイトのいう無意識とは主体を越えたところにある言語の構造に関係してくるというものである。そしてそのシニフィア

      • 絲山秋子「別所さん」を読んで

         絲山秋子の「別所さん」は主人公の龍一が住む、また妹が大学に通う「橋のこっち側」と、いまや向こう側になってしまった実家との往来が鉄道橋の崩落で遮断されるところから始まる。  妹は「帰れないの」という。  都心からたったの二時間離れた、にもかかわらずいまやこっち側、此岸であるアパートから遠く離れた彼岸となった実家に車で送ってほしいとせがまれる龍一はすばやく嘔吐する。 龍一も容易には帰れない。  それでも妹は別所さんが来るから帰らなければならない。  妹を不憫に思い、産業道路で妹

        • ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』

           ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』では、まず「読まない」という段階にも様々なものがあることを示す。  そもそもあらゆる書物の一部しか我々は読めず、そのことはとりもなおさず何かを読むという選択は何かを読まないという選択に等しい。読まないことのもっともラディカルな例としてムジールの『特性のない男』に出てくる司書は「全体の見晴らし」を得るために本を一切読まない。ある本について語るに必要なのはあらゆる書物の〈共有図書館〉の中のどこに位置するかを知っている

        ダダイズム、未来派。塚原史『言葉のアヴァンギャルド』について

          利休は生きていた!?ー中村修也氏の学説を概観して

           これまでの利休が切腹したということが信じられてきたのは、表千家に残されてきた一次資料ではない後世に書かれた「千利休由緒書」によって流布し定着したことによるという。  また江戸時代以降に美化された千利休の茶聖という人物像にも影響を受け、秀吉が切腹を命じた理由はその芸術性の相違であるという見方が一般的見解になり多くの人々の目を曇らせてしまった。  利休が堺の政商であったとするならばそのような理由で自身を重用してくれている秀吉に対して牙をむくということが起こり得ようはずもないのは

          利休は生きていた!?ー中村修也氏の学説を概観して

          ティツィアーノの図像学的分析

          ①    ティツィアーノの『ウルビーノのウェヌス』の記述  一糸まとわぬ女が穏やかにこちらを見ている。  視線には嫣然としたところもなく安堵しきったようで微かに首をかしげるようにして口元に笑みをうかべている。  ベッドに半身になって横たわる女はクッションに寄りかかり、枕に頭をもたせながら両足を組み、下になった右足を持ち上げ、その太ももと凭せ掛けた左手でその陰部を隠すようにしているもののほのかに上気したように血色の良い滑らかな裸体を惜しげもなく晒し、羞恥の色も見せない。正面から

          ティツィアーノの図像学的分析

          ボルヘス『詩という仕事』に寄せて

           ボルヘスにとっては言葉が存在し、その言葉によって詩を織り上げられるという事実こそが悦びであり、そのことが本書では、「生涯でもっとも重要」なことでありあらゆる生活上の実際の経験に勝るとさえも賞揚されている。こうした彼の思想は幸いなことではないか。言葉は、詩は、現実の経験と違い誰に対しても開かれているということだからだ。   言語が表そうとする「物そのもの」であるとか形而上学で想定されたありのままのイデアなど存在しないがそれでも我々が「イデア」という観念にことよせる心情はいか

          ボルヘス『詩という仕事』に寄せて

          ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」について

           ベンヤミンは資本主義生産様式がプロレタリアート搾取に向かう中、上部構造である芸術における変革を本稿で描き出す。 写真やトーキーといった複製技術が1900年を画期として、芸術作品に深刻な変化を起こしたという。 元来、芸術作品は「いま・ここ」という一回性によって特徴づけられてきたが大量生産された複製にはこの一回性がない。  手製の複製ならオリジナルの真正性は権威を保つが、複製技術による場合より自立性がある。例えば高速度撮影のように肉眼でとらえられない像を切り取ることもでき、さ

          ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」について

          沢山実果子『性から読む江戸時代―生活の現場から』に見る江戸時代の性愛観

           沢山実果子『性から読む江戸時代―生活の現場から』は江戸時代の男と女の生活の場における細部に目を向け、性への意識、生への希望、不安といった直接的には語られることのきわめて少ないリアリティのある声に迫っている。  まず、俳人、小林一茶が『七番日記』で丹念に記録した妻、菊の月経、二人の交合、強壮剤の採取・摂取、妊娠についてつぶさにみてゆき、この記録が俳諧の指導で旅に出ることの多い一茶が妻の懐胎した子供が自分の子供なのかを確かめる意味を読み取る。そこには五十二歳にして妻を娶った一茶

          沢山実果子『性から読む江戸時代―生活の現場から』に見る江戸時代の性愛観

          亡き人を想う  酒井抱一の紡ぐ文化ネットワーク

           酒井抱一の《夏秋草図屏風》は 二曲一双の屏風絵である。 いずれも銀地に、右隻には 驟雨に打たれてしな垂れる夏草、左隻には強風にたなびく秋草が描かれている。 それぞれをよりつぶさに見てみると、右隻では、画面右上方には一筋の水流が描きこまれている。水流といっても子細に特徴を描きこまれた植物とは対照的に、あくまで意匠的に様式化された文様に近い描かれ方である。幾たびか蛇行し進む水の流れは、濃淡のない群青色に染め抜かれていて水紋もこれはまた退色してしまっているものの銀の線で描かれてい

          亡き人を想う  酒井抱一の紡ぐ文化ネットワーク

          誰かの幸福を祈る ブータンの旅で得たこと

           九月だというのに夕刻のブータンはすでに肌寒く上着を持たなかったことを後悔していた。  ガイドのソナムの案内で料理屋に入った。狭い店内に客はなく中央のテーブルに通された。既にテーブルには二人分の食器類が並んでいた。二人分ということが私の注意を引いてソナムを見る。今晩は一緒に食べるよ、という。これまで彼は私と離れた席で馴染みの同国人の輪の中で食事を済ませていた。入店前に「運転手と三人でナイトクラブに行かないか」と話していたことを考え合わせるとこの食卓はもう彼にとってオフの時間な

          誰かの幸福を祈る ブータンの旅で得たこと

          『仮面の告白』と仮面の三島由紀夫

           三島由紀夫の『仮面の告白』は、作家本人をモデルとして想起させる「私」の幼少期の記憶をたどるところから物語は始まる。糞尿汲取人の若者にはじまり、行進する兵士たちに性的な快感に結びつくことなく、その職業の悲劇性、その死に官能的欲求を目覚めさせ、と同時に女奇術師に自らを擬する扮装欲の芽生えを経て、おとぎ話の「殺される王子」、聖セバスチャンの殉教図などに自己を投影してマゾヒスティックな空想の中で欲情するのだった。 中学に進学した「私」は同級生である粗放で精悍な近江に魅かれ、肉欲を覚

          『仮面の告白』と仮面の三島由紀夫

          ミニアチュールの中の安逸 プラハの街で澁澤龍彦「胡桃の中の世界」を考える

          プラハのストラホフ修道院に入ると、世界でもっとも美しい図書館とも称される神学の間、哲学の間ばかりに注目が向かいがちではあるが、それほど広くもない廊下を所狭しと埋め尽くす陳列棚にくぎ付になった。  澁澤龍彦好みの空間だなと思った。  後になってわかったのだが、澁澤もこの修道院のコレクションを見て、同じ神聖ローマ帝国統治下のプラハにあったというルドルフ二世が作らせた驚異の部屋のひな型だと、ヨーロッパ滞在時の覚書に記している。  驚異の部屋とは、権力者らがその博物趣味の求めるに任

          ミニアチュールの中の安逸 プラハの街で澁澤龍彦「胡桃の中の世界」を考える