絲山秋子「別所さん」を読んで
絲山秋子の「別所さん」は主人公の龍一が住む、また妹が大学に通う「橋のこっち側」と、いまや向こう側になってしまった実家との往来が鉄道橋の崩落で遮断されるところから始まる。
妹は「帰れないの」という。
都心からたったの二時間離れた、にもかかわらずいまやこっち側、此岸であるアパートから遠く離れた彼岸となった実家に車で送ってほしいとせがまれる龍一はすばやく嘔吐する。
龍一も容易には帰れない。
それでも妹は別所さんが来るから帰らなければならない。
妹を不憫に思い、産業道路で妹を送るが車は渋滞にはまり、実家に向かうことを逡巡していた龍一の心に呼応するかのように何度となく動いては止まる。
車中、妹はすんなりいつも通り帰っていたら「脱線した電車に乗っていたかも」しれないといい、想像力の上では生死の境を越える。妹はそんな死の気配を身辺に残したまま、かつての危機を語り始める。暴行を受け死にたいと思い、それでも生と死の境界を行きつ戻りつしその瀬戸際で踏みとどまった。
そして「まあ生きててよかったんだ」と、龍一は妹の話に言及を避けるためのおざなりな言葉で結論付ける。
そんな彼にとっての家族との隔たりはどこから来るのだろうか。
「こんだけいっぱい話して、それだけ?」と妹がいう。
「ごめん。でも俺にそう言う日も来るかもよ」と兄は答える。
一読しただけでは気づかなかった龍一の一言が、幾度か読むうちに彼の抱える危機を予感させてやまない。実家に妹を送り届けた龍一はそれでも胃の不調を感じ緊張もしていた。そして疲れを感じないうちに「早くアパートに戻ったほうがいい」と思う。家族との距離という以上の不穏さを湛えた描写に思われる。彼の嘔吐を催すほどの胃の不調は実家に戻ることにまつわる緊張であり、アパートに戻ったほうがいいのだから。
別所さんとは何者だろうか。時々実家にやってきて一宿一飯の礼に何かを置いていく別所さんは、妹によると「前と同じ別所さんじゃないかも」しれないという。「別所さん」というのが名前ではなくなにか職業のような総称として扱われている。
別所さんとは折口民俗学における「まれびと」のようなものかもしれない。まれびととは遠来の神であり、通常は海からやってくる。海の先は常世、例えば沖縄地方の信仰でのニライカナイ。別なる所、彼岸である。
妹は言う。別所さんは「ふつうのおじさん」だと。
まれびとは祖霊神であり、普通の人々の普通の祖先なのだ。
祖霊神は彼岸からこっち側へ容易くやってくる。
龍一が容易くいけない向こう側、実家では彼岸と此岸を往還する祖霊神が「突然くる」。
妹は別所さんのおかげで実家と、家族と繋がり続け救われているのではないか。
龍一は妹がメールで送ってきた別所さんの芋版に並々ならぬ関心を示す。芋版が曼荼羅であることに気が付く。龍一は、はやる思いにかられて妹に電話をする。
ユングが不安定な精神状態を鎮めるために円を描いていてそれが曼荼羅に似ていることに気が付いたという逸話を思い出す。ユングは曼荼羅を精神療法にも用いるようになっていく。
龍一がそんなことに思い至ったかどうかはともかく、それでもそこに何かの救いを見出し、妹にも知らせてあげなければという思いに突き動かされていたのだ。
やがては消えてなくなる芋版を見たい彼はここにきてはじめて積極的に実家に帰ろうと決心する。
しかし、今度は発熱が彼の帰還を阻んだ。彼がいっぱい話して「それだけ?」と聞き返したくなるような反応しか家族から得られないであろう何か。
それでも「別所さん、なにも言わなかったのか?」と妹に訊ねたとき、すでに別所さんを家族の共通言語として受け入れている。
龍一が別所さんに会う日もそう遠い日ではないのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?