書く時にはどこかあまのじゃくになりがちな私がいる、それはひねくれてるとかすねてるとかではなくて、知らない自分を知りたいからなのではないかと思うのだ。
書くと一言で言っても、書き方には人の数だけあるような気がする。
書く理由がある人もいればない(自然に任せている)人もいて、書き方がある人もいればない(自然に任せている)人もいて、それがある意味、当たり前のことなのだと思う。
人というのは、個性を追求すれば、どこまでもどこまでも果てしないものなのだと思う。
しかし、社会というものは、個性を尊重しようと言いながら、全部とは言わないが、個性を潰しているのではないかと思うような事態や環境が当たり前となっていることもある。
だからだろうか?せめて書く世界でぐらい、自分というものを思いっきり試してみたい、そんな気もするのである。
そんな時、私はタイトルのように、あまのじゃくになってみたくなるのだ。
あまのじゃくと言うと聞こえが悪い気がするが、私の言うあまのじゃくとは、いつもと違う自分を体感または体現してみたいという欲求にかられることだ。
これをすることによって、自分というものの可能性を探るきっかけになるような気がするからだ。
可能性なんて、もしかしたら自分が一番よくわかっていないのかもしれない。
子供の頃から大人や社会から、無難な幸せの価値観を洗脳されてきた感じを受けていたので、あまのじゃくに書くことで、ささやかな抵抗をしながら自分の知らない自分を探しに行っているのではないかと思うのだ。
それは、楽しい旅なのだろうか?
いや、結構、厳しいし、楽しくはない。
だから、私の記事は、時に、いや、常になのかもしれないが、思考しすぎの印象を感じさせてしまう傾向がある。
自分でもそれは自覚している。
しかしながら、私はその旅路の中で、完全に絶望しているわけではない。
完全に絶望するとは、私の感覚の中では、生きることを放棄している状態というように感じている。
私は、決して、生きることを放棄なんてしない、むしろ、逆だ。
生きてやる、生きてやる、生ききってやる、そう思っている。
行き止まりのトンネル、出口のないトンネルになんてしやしない。
行き止まったって、出口が見付けられなくたって、道は、必ずあるし、作ればいいのだから。
そう、だからこそ、私は、いい意味で、あまのじゃくに生き(書き)続けたいのだ。
さて、今日も生きるとしよう。