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なぜ、文才が欲しいのだろう?

文才が欲しいと思う今日この頃。
いや、私は若い頃からそれを一番に願っていたような気もする。
それにしても、なぜ、私は文才が欲しいのだろう?

他の才能でも良かったはずだ。
なのに、なぜ、文才?
文章を書くことが好きだからという理由は、言い訳に過ぎないのではないか?

私は、文才がある自分になれたら、どこかカッコいい自分になれると思っていたからだと思う。
カッコいいって、どんな?
それは、きっと、周りの人から受け入れられている状態のことだと思う。

ということは、私はただ、人から受け入れられたいが為に書いてきたのか?
むむむ、そうとも言い切れない気がする。
受け入れられたら嬉しいが、受け入れられなくても書いてきた気がする。

じゃあ、なんで書くんだ?
なんで、文才が欲しいんだ?
こういうことを考えること自体、ナンセンスなんだろうが、やはり考えてしまう自分がいる。

あぁ、少しだけわかった、文才が欲しいのは、自分で自分を感じたいからだ。
自分をわかりたいからなんだ。
自分を少しでもわかる(感じられる)ような文章を書けた時、その文章を周りから受け入れてもらえたら、そんな自分が誇らしく思えるから、そんな自分をカッコいいなと思ったんだ、きっと。

うん、この理由だと納得してきたぞ。
っていうか、書くことに理由付けなんて本当は要らないのだろうけど、なぜか?書く動機を明確にしたくなる時があるのだな。
そういう時は、書きたい欲が高まっている証なのだろうか?

あっ、前の記事でも書いたけれど、私が創作を苦手と思う理由、もう一つ気付いたかもしれない。
創作には、いくら自由に書いていいと言っても、基本的文体(文型?)に近いものがあるからだ。
私はその文体(文型?)を気にしすぎてしまって、多分、書けなくなる自分を想像してしまうからだ。

基本、私は書くことにわがままなのかもしれない。(自由を希望している)
頭が悪いとも言える。(爆笑)
だって、基本的文体(文型?)に対する柔軟性に欠けているのだもの。

あぁ、今の私には、創作物を読む訓練が必要だな。
創作ってものが、まだ全然、掴めてない気がするよ。
お仕事でもないのに、書くことにそこまで真剣に悩まさせられるって、ある意味、すごいな。
書くことって、人間にとって、やはりとても魅力的な行為なんだろうな。
と、結局、着地点のわからない記事になってしまったが、まあ、良しとしよう。(笑)


さて、今日も生きるとしよう。



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