文章を書く、それは自分を知る旅でもある
私は文章を書くことが好きだ。
きっと音楽を聴くことと同じぐらい好きだと思う。
しかし、文章を書くことは、時に苦痛も伴う。
それは自分を知る旅でもあると思うからだ。
もちろん、それは私の場合である。
誰しもに該当する話ではないことは、いつも断っているが、今回もお断りさせて頂きたいと思う。
私が文章を書く時、明確に書きたいことがあって書く場合と、特になくて書く場合とがある。
不思議なことに、明確に書きたいことがある場合に書くと、逆に明確な思いがやんわりとした思いに変わっていくように思える。
特にない場合に書くと、逆にやんわりとした思いが明確な思いに変わっていくように思える。
書くという行為は、自分の心を見つめ、その状態を存分に味わうことで、自分の本心と対話するような感じなのかもしれない。
書いたことで、心のもやもやが、全てとは言わないが、取り除かれたような気がしてくるからだろうか?
そうやって考えると、書くという行為は、まさに旅路なのであろう。
実際の旅に種類や趣向があるように、書くという心の旅路も、種類や趣向があるように感じる。
私の種類は、何だろう?
これは、おそらく、エッセイで良いのですよね?
では、趣向は、どんなだろう?
自己分析を基に自分を応援するのが好き、といった感じだろうか?
うん、なんとなく見えてきた。
ちなみに、今日は、思いっきり、書きたいことがあって書いたわけじゃない。
ぼんやりした自分の思考を明確にする為に、書いてみた感じだ。
どうやら、その作戦は、まあまあ成功したように見える。(笑)
話は飛躍するが、私は詩や小説を書くというセンスがない。
憧れはするが、私の書く方向性として、向いてないと感じるからだ。
なぜならば、私の書きたいことは、ずっとノンフィクションだったからだ。
私は小さい頃から、人生に思い悩んでいた。
いつも今の自分、今の暮らし、今の人間関係を、どうしたらいいか、そんなことを強く考えていたからである。
そうすると、私は自然と現実のことに関心が及ぶようになった。
いわゆる、ルポルタージュ的作品を読むことで、自分の人生の迷いと重ねて解決を試みようとしていた感じだ。
な~んて、カッコいいことを言ってみたが、単純に、私は人生に余裕がなかったので、余裕がないと読んだり書けなそうな、詩や小説への苦手意識がものすごく強かっただけなんである。
今も、詩や小説は読むだけでいい、憧れの存在だと思っている。
私が自分の書く道を、狭く決め付けるのは良くないのかもしれないが、自分が強く魅かれる書く道は、やはり、自分を見つめ続けることがテーマで、現実を分析することにあるのではないかと思う。
よほど、気まぐれに、詩や小説にチャレンジしてみたくなったら、きっと違う名前で、ひっそりと書いていることが、いつかあるかもしれないけどね。(苦笑)
同じ人が歌ってるとは思えないね(^^;)