切なさが込み上げる夜というのは、何を思って切なくなっているのでしょうね。。。
大丈夫と言ったものの、やはり、突然、父を思い出し、瞬間的に涙する時がある。
なんでもないことで、突然、父を思い出してしまうのだ。
先日、脳腫瘍の手術入院をしている主人の面会に行った時、他の病室で、父と同じぐらいの年代の男性が、寝たきり状態になっているのを見かけた。
その方を見た時、先々月に亡くなったばかりの父を思い出した。
面会に行く度に、今日の父は元気だろうか?大丈夫だろうか?そんなことを考えながら、母と共にドキドキしながら会いに行ったものだ。
会って、ホッとする日もあったけれど、心配な状況が続くこともあり、母も私も心配しすぎて、心が疲弊しまくっていた。
今は父に会えなくなってしまったけれど、父の辛そうな姿を見ることがなくなったことは、母と私の心の疲弊をやわらげた。
悲しみの形は変わるものなのだと思う日々を過ごしている。
父に会えないだけで父はどこかで生きている(入院・入居している)ような感覚なのだ。
それでも、主人の入院している病院で、寝たきりの高齢の男性を見かけた時のように、心が揺さぶられる時がある。
毎日のように頭に浮かぶのは、私が小学四年生の時に、家族で遊園地に行った時の写真である。
熊の乗り物にまたがる父と私、親子(父子)になったばかりの頃の写真だ。
どうしてあの写真が思い出されるのだろう?
きっと、私はすごく楽しかったのだろうな。
新しいお父さんと、熊さんの乗り物に乗って、えへへと言った顔をして笑う私。
無邪気な時代だ。
そんなことを思ったら、泣けてきてしまった。
一体、私は何に対して、切なさを感じているのだろうか?
父のことなのだろうか?過ぎ去った日々に対してなのだろうか?
わからない、わからないけれど、私の頭の中にはあの時の写真がよぎるのだ。
もう、決して戻ることのない日なのだなぁと、当たり前のことを思いながら、今日の日も未来の私にとっては、決して戻ることのない日なのだと感じ入る。
私は何歳まで生きられるのだろう?
そんなことを考えたって仕方ないことなのだけど、時々、ふとそんなことを考える時もある。
父が生ききった年齢まで生きられるのか?
健在の母の年齢まで生きられるのか?
平均寿命まで生きられる保証もないのに、まだあとうん十年、生きる気でいるけれど、人生なんてものは先はわからないのだ。
わからない人生を私は謳歌しようとしているのだろうか?
過去に思いを馳せているばかりで、今を、明日を見ていないのではないかと感じるのである。
切なさの理由は、生きることから少しばかり逃げているからなのかもしれない。
とはいえ、命ある限り、明日はまたやってくるのだ。
さて、今日も生きるとしよう。