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残りの人生を予測できる年代になってしまったからこその哀愁こそが、人生の悲喜こもごもとなり、オリジナルの魅力を開花させる絶好のチャンス🎵

皆さん、こんにちは☀
私は、以前に、

「残りの人生を予測できる年代になってしまったからこその哀愁はあれど、開き直りもまた芽生える今を愛する気持ち」

という記事を書きました。


こちらの記事に、コメントを下さった、よるさんから、


光栄にも、この記事の続きを書いてほしいというリクエストを頂きました。
この記事に続き?と、初めはビックリも致しましたが、愛に溢れた記事をいつも書いて下さっている、よるさんへのお礼も兼ねて、書いてみようと思いました。
続き的記事になるか不安ですが、何よりも素直な気持ちを表すことを第一に、思いを綴ってみたいと思います。
お時間あります方は、ちょっとだけ覗いていって下さいましたら嬉しいです。




さて、いざ書くとなると、緊張しますね😅
なるべく、自分の気持ちに素直に書きたいので、ここからは、である調に文体変わりますので、よろしくお願いします。


そもそも、私が、前回、

「残りの人生を予測できる年代になってしまったからこその哀愁はあれど、開き直りもまた芽生える今を愛する気持ち」

という記事を書いたのには訳があった。
大きい訳ではないけれど、人生を折り返していることを実感する日々を、送っていたからだ。

人生を折り返す?正直言って、自分でもいまだに自分の年齢が信じられないことがある。
私の書く、昭和の若者が当時聴いていた音楽シリーズに出てくる音楽を聴けば、いつだってあの頃に帰れるのに、鏡に映す姿は明らかに人生の片鱗を感じさせている。
顔の筋肉は重力には勝てなくなっているし、艶のようなものが失われている。

しかし、なんだろう?いつの頃からか?そんな顔を見ることも、そんなに嫌ではなくなっていた。
これも私の歴史だ、そんな風に受け止めることができるようになっていたのだ。
不思議なものだ、若い時ほど私は若さに執着していたような気もする。
若くなくなってしまった今、若さに固執することの虚しさを、もう十分に知ってしまったからなのかもしれない。

わたくし事で恐縮だが、私の場合は、病気をしたことで人生観がだいぶ変わったと感じている。
病気とは、当たり前であったこと(健康)が、当たり前でないことを思い出させてくれる、ある意味、とんでもない人生の気付きを私にもたらした。

闘病真っただ中の時に見えた風景、回復を目指して頑張っている時に見えた風景、ほぼ回復に近付き、今後の人生を想像しながら奮闘している今、見えている風景、そのどれもが私にとって、私というものを作る、かけがえのない、大切な大切な景色なんである。

人生とは絵画のようでもある。
自分の色を、キャンバスに何回も何回も重ね塗りをしていく行為のようではないか。
過去の色も現在の色も、別物では決してないのだ。
ブレンドされて、オリジナルの色がその都度、その都度、塗り替えられていく。

過去の私の上に今がある、今の私の上に未来がある。
こんな当たり前のことに、とてつもない喜びを、感じることができるようになった。
キャンバスに描かれた絵は、これからも自由自在に変化していくことができるのだ。
カラフルに塗ることもできれば、色の濃淡を調整することもできる。

やりたい放題ではないか!!

重ね塗りの人生にこそ意味がある。
自分にしか出せない色、その色に自信を持とう。
そして、周りの人の出す色に共鳴し続けていたい。



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