見出し画像

恋をすると電車に乗ってばかりいる

今から20年以上前のこと。
尊敬する、先輩のライターさんから電話があった。
当時彼女は50代半ばくらいだっただろうか。
お洒落で、常に好奇心がいっぱいで、そしてもの凄い毒舌の持ち主。
こちらが「もしもし…」という間もなく、早口で
「寧子さん、悪いんだけど12時半に青山まで来て欲しいの。あの喫茶店、前行ったから分かるわね、あそこで待ってて。渡したい本があるのよ」
その日はちょうど時間があり、また青山方向には以前から行きたいと思っていたギャラリーもあった。
彼女が紹介してくれる本はいつも面白かったし、少しお茶するならいいか…
「いいわね、12時半よ!」

10分前に喫茶店に着いた。
彼女はいない。
定刻を過ぎても現れる気配がない。
10分過ぎ、15分過ぎ…
私はやっと思い出した。
そうだ、いつも時間通りにはこない人なのだ。
締切に追われているのかもしれない。私は若輩だし、読む本もあるし、待つのは苦ではないけれど。しかし…

25分くらいしたところで、一人の男性が近づいてきた。
「もしかしたら〇〇さんとの待ち合わせかな?」
見上げると、高価そうな服をさりげなく纏った中年のモデルさんみたいな人が立っている。
お金はかかっているけれどギラギラしていないセンスの良さ。全体に抑制がきいていて、口調も穏やかで、初対面でも恐怖を感じさせない。
私が頷くと彼は飲み物を注文し、はす向いに座って喋りはじめた。

「時間は大丈夫? 12時半待ち合わせだよね…僕は遅刻するって伝えておいたんだけど…もう1時だ。悪い癖だな」
先輩はこの方も呼んだのだろうか?
なぜだろう?
「〇〇さんとお知り合いですか?」
「生憎ね…大学が同じだったんだ」
だとしたらこの人も頭がいいんだな、あるいはお坊ちゃんなのか…。
「どうせ彼女が全部話すだろうけど…付き合ってたんだ、学生時代。
彼女は卒業してからニューヨークに行って、知ってると思うけど、そこで知り合った人と結婚して、5年くらいあっちにいたかな?
帰国してまた会って。その時はもう離婚してたけど」
私は彼女の仕事を尊敬していたので、あまりプライベートを知らない方がいいような気がしていた。でも目の前の人はこちらが訊かなくてもどんどん、どんどん話してしまう。

「帰国してからはよく呼びだされてね。口汚く罵ってたねえ、元旦那を。
それからまたしょっちゅうアメリカやカナダに取材に行くようになって、当時は日本も羽振りが良かったからなあ。知ってる? シカゴに行くっていうだけで渡航費は出る宿泊代も出る、ホテルで「何書こうかな~」って悩んでたっていうんだから!
原稿用紙1枚で1万円以上、有名じゃなくてもせっせと書けば家が建った時代だったんだよね。
それで彼女は2番目の旦那と都内に一軒家を建てた。結構な豪邸で、僕も妻や子供と遊びに行ったけど…
今度もひどい揉め方をしてたね。
離婚、成立したのかな?」
「したみたいです。裁判は続いているようですが」
「そうか…じゃあそれで呼びだされたのかもね」

彼は腕時計を見た。
「多分、今日は来ないよ。そういう人なの」
私の携帯電話も、彼のも鳴らないということは、確かにこれ以上待っても仕方がないのかもしれない。
「ここは僕が払うから。次の予定あるでしょ」
彼は、どうぞ、という風にドアを指さす。その仕草も、なんだか驚くくらい洒脱だ。
1つ1つが外国文学みたい…この人は確かに日本語をしゃべっているけれど、言葉に肉体を感じないというか…土っぽさや血や涙の匂いがしない。
上品で、軽やかで、適度な可笑しみもあって…でも彼の周辺だけ画風が変わったかのようにリアリティがないようにも感じられた。

私は立ち上がりつつ、お茶だけでなく食事もしているので、自分の分は払います…と伝票を持った。
彼はさっとそれを押しとどめ、
「僕はお金持ちだから」
と微笑む。
「君、うちはどこ?」
当時私は世田谷区に住んでいた。
「僕は府中。そう、近くないよね。会えないかもしれないのにね、毎回出て来るの。バカみたいに」
ということは、これまでにも度々すっぽかされていたということだろうか…?
「我ながら、どうかと思うよ。
でも彼女に会いに電車に乗っている時間が、昔から不思議と好きなんだ。何だろうね、多分…。
じゃ、しばらく独りで嫌な気分にひたらせて」
ドアを出ていく私を、彼は見向きもしなかった。

行きたかったギャラリーまで歩きながら、私は「多分…」の続きを考える。
「でも彼女に会いに電車に乗っている時間が、昔から不思議と好きなんだ。何だろうね、多分…」
もしかしたら、なぜかいろいろなことがうまくいってしまう人生の中の、唯一どうなるかわからない時間だからかもしれない。
ほぼ会えないけれど、数パーセントの確率で会うことが出来るかもしれない、美しい賭け事。
日没に太陽が緑色に見えると幸せになるという言い伝え、滅多に現れない「緑の光線」を待つひと時。
ほぼ負ける、でももしかしたら…と願う、人生で唯一の人間らしい、泥くさい願いの味わい。
幸福な結婚をしながら、裕福な暮らしを愉しみながら、彼が唯一生きるリアリティを感じているのがこの苦くも甘い移動のひとときなのだとしたら…。

多くの人は、恋をすると電車に乗ってばかりいる。
でも車窓から見える風景はそれぞれに随分違う。
彼は今いくつになっただろう。
その後、何回電車に乗ったのだろう。
そしてその何回目かに、彼女を嫌いになれたのだろうか?

いいなと思ったら応援しよう!

青柳寧子
お読み下さり、誠にありがとうございます! 頂いたチップは今後の取材・資料購入などに使わせて頂きます。 充実した記事をご提供できるように努めて参りますので、何卒よろしくお願いします。