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エリリャオ(Eri Liao)さんインタビュー

台湾人と日本人のハーフで、台湾原住民族(タイヤル族)の歌手・エリ リャオさんのお話を伺いました。
東大大学院からコロンビア大学へ留学、日本に戻ってジャズシンガーとして活躍しつつ、なぜ台湾民謡(原住民族音楽)を歌い始めたのか…。
Eri Liao + 残歌のソウル・台北公演を目前に控えた2024年8月末、九品仏のスタジオに伺いました。
(インタビューは日本語で行っています)

Eri Liaoさん

--東大で宗教学を、コロンビア大学でCreative Writingを専攻されています。いつ頃から音楽を志されたのでしょうか?

台湾で小さなころからピアノを習っていて、すごく好きでした。今振り返れば幼い頃からずっと音楽をやりたかったんだと思います。歌も好きでしたし、音大に進むという道もあったと思いますが、父親(日本人)からは
「東大以外に進学するなら俺は一切金は出さない」
と言われていました。
また周りに音楽をやりたいという友達もいなくて、
「じゃあいいや」
と。それでそのままみんなと塾に行ったりしていたのです。ピアノはちょこちょこ弾くくらいで。

ただ、いくつぐらいだったかな? なりはじめた時期は覚えていないのですが、ものすごい重度のアトピーになりました。
一回入院して治ったんですが、その後もひどくなったりして…。
その時、なんとなくですけど、
「ピアノをやればいいんじゃないか」
と思ったのを覚えています。
大学院に入ってすぐも症状が重くなって、ゴールデンウィークの間もひきこもって考えました。考えて考えて、ムクっと起きたときに
「ピアノをやろう!」
と心が決まりました。もう、やりたいことをやればいいんじゃないかと。
すぐにジャズピアノの個人レッスンをはじめて、やりはじめたら大好きだったのでわーっと夢中になって…。
案の定アトピーも良くなってきて。

--それは良かった!!
もともとジャズがお好きだったんですか?

子どもの頃習っていたのはクラシックです。でも日本に行くとあちこちでジャズを聞く機会がありました。ラーメン屋さんでもや蕎麦屋さんでも、素敵なジャズがかかっている、いいな…と。
ピアノの先生にやってみたいと言ったら
「エリちゃん、ジャズはウィスキーを飲みながら、それをピアノの上に置いたりしつつ弾く大人の音楽なのよ」(笑)。
だから今はクラシックを…という説明でしたが全然納得できなくて、当時、小曽根真さんがラジオ番組をやっていてリスナーから質問を募集していたんです。それで「先生からこう言われましたけど…」と質問して(笑)、そうしたら小曽根さんも「そんなことはないと思いますよ」と回答してくれました。CDも貰って(笑)。
それを先生に伝えたら誰かのソロを譜面化したものがあるから弾いてみたら? と。ただジャズの曲ではあるけれど「楽譜の通りに弾きましょう」というクラシック的な教授法で、本質的にはまったく違うことをしていました。

--で、受験などでしばらくピアノから離れて…

アトピーきっかけでピアノを再開。
今度はジャズの先生です。ずっとやりたかったことなのですごく楽しかった。夢中で練習しましたが、ジャズは基本的に一人でやるものではないから…といろいろなライブを聞きにも行きました。
ある日、先生がジャズボーカルの伴奏をするというのでライブハウスに出かけたことがありました。ところが…昔のことでもうどなただったかも覚えていないのですが…その歌が…ものすごく下手だったんです(笑)。
あれ、これお金とって歌ってるの?
だったら私がやってみてもいいのかも?

本当に申し訳ないのですが、それまではシンガーって、例えばマイケル・ジャクソンとか、そういう物凄い上手い人しかいないっていう…とても同業は志せないと思い込んでいて。でもその方がだいぶハードルを下げてくれたということで…

--恩人ですね。

恩人です!
で、すぐに歌を始めました。
もともと歌うのが好きで、カラオケにはよく行っていて。
歌はフィリピン人の先生につきました。
3ヶ月くらい真面目に取り組んで、そうしたら先生が
「アメリカなら他のやり方もあるけど、日本にいるならもう現場に出て、ライブをしていく方がいいんじゃないの?」

その時、なぜかじゃあライブをと思わず、
「今この人、アメリカなら違うって言ってたけど…」
とそちらが気になってしまって、せっかく大学院にいるし、留学という方法で渡米してみようと思ったんです。

通常大学院に入学する際には、願書を出すときに論文も提出しなくてはいけない=その論文を書くために膨大な文献を読んで研究ができていないといけない、のですが、それをするには途方もない時間がかかる。Creative Writing の場合、願書と一緒に提出するのは論文ではなく自分の作品なので、それならば少ない時間でできるだろう、と。すでに大学院には日本で在籍していたので、形式的にはコロンビアの大学院に編入という形での留学でした。もっと学費が安いところに行きたかったんですけどそこしかダメで…

自分のことなら書けるだろうとCreative Writing を選びましたが、ただ、入ってみたら周囲は本気で書く仕事をしたい英語ネイティブばかり。
非ネイティブで英語作品書いている人はたくさんいて、そういう人たちを眺めて私もCreative Writingの学科に入学したので、できないことはない。けれど、結果的には、文献読んで論文を書くのと同じくらいの時間とパッションが必要だとよくわかったという感じです。

というわけで大学院は通いつつも、渡米の目的はジャズなので(笑)、ライブやワークショップに出かけていました。
当時バリー・ハリスというビバップ時代からの生き証人のような素晴らしいピアニストが毎週火曜日にワークショップを開催していて、これがどんな人でも参加できる、あらゆる人に開かれた場でした。夕方5時から深夜の1時くらいまでやって、10ドルとか15ドル。
私は自分の貯金をコロンビアにつぎ込んでいましたが、これなら参加できる。あとはセッションに行ったり、ちょっとライブをやってみたり。

ワークショップきっかけで、はじめてライブの仕事も頂きました。
結構大人数のバンドで、フロントがサックス。私は後ろにいるボーカルですが、他の人達は長いキャリアがあるとか、音大生だけど若くしてスター的な存在とか、もう凄い人ばっかりで、自分が一番出来ていない。迷惑をかけてはいけない…と必死で、誰よりも真面目にリハーサルに行って、もう異様に頑張っていました。それくらいやらないとついて行けなかった。
ただあちらは頑張っているとそれなりに声をかけてくれるというか、正当に評価してくれ、大変でしたが楽しかった覚えがあります。

ただやはり大学院とジャズと両立するのは大変で、アトピーが悪化して、そのあたりからもう
「ああ、私は学校が向いていない。体がやめろと言っている」
と確信していました。
いちおう2年生に進む時に奨学金を貰えることになりましたが、それが5000ドルで、たったそれだけじゃ何の足しにもならない。
追い打ちをかけるように夏休みで台湾に帰省している時に祖母が亡くなり、私はCreative Writingのコースで彼女について書いていたので、祖母の話が聞けないなら書けないし…と。一瞬「もう一年いれば卒業できる」とも思いましたが、そこで思い切ってスパッとやめました。
ただジャズは「ニューヨークで続けたい」という気持ちがあって、その後もだましだましビザを延長して計4年くらいニューヨークにいました。粘っていましたがだんだんお金も尽きて、大家さんと揉めたりもして、仕方なく友達の勤めている会社に就職。そうしたら「日本語できるんだよね?」と日本支社に配属されて、日本に帰ってきたという顛末です。

ニューヨークにいた頃、日本のミュージシャンはよくニューヨークに来ていたので、何人か知り合いができました。その知り合いをたどって高田馬場のイントロ(ライブハウス)に行き、セッションで人脈を作り、ボーカリストを探している人がいると歌わせてもらって…。そうして少しずつ日本で活動をはじめました。
だから最初は台湾の歌は一切絡めず、スタンダードだけでした。

ジャズは大好きですから凄く楽しかったのですが、でも一年くらいそうやって活動するうちに
「台湾出身です」
と言うと
「台湾の歌も聴かせて」
と言われるようになりました。当初は「歌えるかな?」 と思いましたが、確かに、疑いようもなく、自分の中には台湾原住民の歌があるんです。すぐに「歌ってみたい!」
という気持ちが芽生えて来ました。
それに、それまでのセッションを通じてミュージシャンの知り合いも増えていましたから、これは何かできるかも…と。
それですぐに譜面を作って、ライブの最後に演奏するようになりました。

自分の中には台湾原住民の歌がある

--お客様の反応はいかがでしたか。ジャズとはずいぶん違うと思いますが…

すごく好きになってくれて、コール&レスポンスのある曲とか、とても盛り上がりました。
ミュージシャンも、ほとんど日本の方ばかりですが、ジャズをやっているときはそれぞれすごいのですが、台湾の民謡をやる…となった時にジャズでは見えない、何かその人の持っているソウルの部分が出てきます。喜んで演奏してくれる人が多い。
日本でも台湾でも「民謡」って、よく知らないけれどなんとなく分るというか、説明不要で感じるものがある。響き合うものがあるんですね。
すぐに手ごたえを感じて、これはアリなのかも…と。

そんなこんなしているうちに、はじめはアンコールで1曲だったのが、だんだん2曲3曲と増えて来て。アレンジも自分で考えるので、あれをやりたいとかこれを試したいとか試行錯誤しているうちに、今ではすっかり民謡歌手だと思われています(笑)。
今でもアレンジは、細かいところは任せることもありますが、自分でやっています。

実は、台湾の原住民音楽は、日本だったら三味線や太鼓がありますが、もともとは伴奏楽器が一切ないのです。
おそらく伴奏という概念自体が無くて、歌とダンスだけ。16部族、全部そうだと思います。観光地などで太鼓を叩いたりしていますが、あれはパフォーマンス用ですね。
私はもともとピアノを弾いていたのでピアノで編曲していましたが、ピアノが無い会場もあるし、今はギターとボーカル、ピアノとボーカルというデュオや、自分でピアノを弾き語りしたり、三線弾き語りのみでやったり、アカペラの時もあるし、色々です。

ギターの小沢あき さんと

--先日のライブはエリさんの台湾原住民族についてのレクチャーもとても楽しく、より深く曲を楽しめたように思います。

レクチャーは、はじめは一般の大学や音大のゲスト講師として呼ばれることがあって、学生さん向けに話していました。学生さんは授業は寝に来ている(笑)という方も多くて、とてもまじめに聞いてくれる人がいる一方で無関心な方も少なくない。随分鍛えられました。
その点、大人の皆さんは興味があって来て下さるので話しやすかったです。
非常に好評なので、これも続けていきたいですね。

日本でライブ活動をはじめて十年。当初は台湾原住民の歌を歌うつもりはなかったし、台湾について語るつもりもなかったのですが、今はいろいろな形で「伝える」ことをやっていきたいと思っています。
台湾はとても近いから日本人にとっては親しみやすい観光地だと思いますが、そうやって興味を持ってくれた方に、もう少し深く台湾を知ってもらうきっかけになれば…。グルメやショッピング以外の台湾も知ってもらうことで、より重層的に、深いコミュニケーションができるようになるかもしれません。

自分で言うのも何ですが、台湾原住民族でこれだけ日本語が喋れる人もそうはいないと思っていて(笑)、原住民族の当事者が日本語で話すというのも意味があると思います。私は自分の言葉で両国の「橋渡し」が出来るかもしれません。 
台湾と日本の間には歴史的なトラウマがあると思いますが、史実は史実として知りながらも、
ではこれからどうするのか?
未来を創る若者たちはどうしたらいいのか?
バランスをとりながら考えたり話し合ったりしていきたいと思います。

--もうすぐソウル+台北ライブですね!

もともとは韓国のフェスに参加することになり、だったら帰りに台湾に寄らない? 別に通り道じゃないけど(笑)みたいな気軽なノリだったのですが、いざ決まってみたら台湾に行くのがすごく楽しみだし、意義もあるなと思っています。
私の経歴は日本だと
「東大! コロンビア! 3か国語もしゃべれるんですか?!」
みたいな捉え方をされますが、台湾だと全然違う見方をされます。
台湾は移民社会なので
「台湾から日本という外国に行き、アメリカにも行き(台湾人でアメリカに留学する人は多いです)、いろいろ苦労しても居場所を見つけて頑張っている」というところが評価されます。台湾の皆さんに「こういう人がいるんだ!」 ということを伝えるだけでも価値があると思います。

また私は原住民族にルーツがあることを公表していますが、今は状況はかなりよくなっているものの、実は社会的なスティグマ(差別・偏見)は消えたわけではありません。
原住民族は経済的に恵まれないことがままあります。中には大金持ちもいるのでグラデーションがありますが…。
また原住民の集落は山間部とか、アクセスの良くない超田舎にあることが多いので、都市部の子供達と比べた場合に教育の機会が不均衡で、結果的に進学率が伸び悩みます。大人になっても、これも個人差はありますが、総体的に文化的なものに触れることが多くない。
様々な差別が根強く残っていて、私の母の代までは、道を歩いていると原住民を蔑む呼び名(蔑称)とともに石を投げられていたのです。
原住民族の歌手は沢山いますが、今でも民族衣装を着てステージに立つと「野蛮人!」のような罵声が飛ぶことがあります。
原住民族は平均寿命が短く、精神疾患が多く、自殺率も高い。これは独特の死生観の影響もあると言われてはいますが、世界中の原住民族の抱えている問題であり、台湾でも改善していくべき課題はまだまだ残されています。

--台湾はLGBTQへの取り組みも進歩的で、そのような差別があるというのは意外でした。

政府がこれまでの差別について原住民族に公式に謝罪するなど、きちんと取り組もうとしているのは確かです。でも現実的には、差別は無くなってはいません。
ただ若者の間では少しずつ意識が変わっているのも確かで、例えば台湾では戸籍がデジタル化されたことで、清朝時代まで先祖を遡ることができます。手書きの戸籍もPDFで閲覧できます。調べてみて、先祖に原住民族がいると喜ぶ若者も少なくないそうです。「やっぱりね、顔が似ていると思った!」とか。
受け止め方が多様になっているのを感じますし、これは良い変化ではないでしょうか?

--台湾の方へのメッセージをお願いします。

私達の音楽をぜひ聴いてみて下さい。
台湾の原住民族の音楽はあちこちで聴けますが、フォークやロック的なアレンジはあっても私達のようなジャズ的なものはほとんどないのでは…と思います。
「残歌」というバンドは素晴らしくて、ジャズ界で活躍しているピアニスト、ジャンルの垣根を越えたギタリスト、そして日本の古楽器「尺八」という交通事故並みの奇跡の組み合わせです(笑)。特に尺八は面白いです。台湾の民謡に尺八が入ると、私の歌がその場でガラリと変わります。ものすごく深いものが生れる瞬間にぜひ立ち会って頂きたいです。

私のルーツのタイヤル族は日本と深い縁があり、これは1875~1925年の日本統治時代は台湾全体がそうでしたが、日本人としての戸籍を持ち、日本名があり、日本語を話し、着物を着ていた時代もあります。
そのタイヤル族であり、日本人でもある私が、この21世紀に、原住民族の歌を日本人のバンドと歌います。

私は台湾人と日本人の「ハーフ」でどっちつかずの存在。純粋なタイヤル族でもない。過去にはそのことに悩んだこともありました。
でも今は、そういう人だからこそできることも沢山あると思っています。
今までは自分のことでいっぱいいっぱいでしたが、これからは若い人のために自分のことを話し、またいろいろな方のお話を聞き、「対話」というと堅苦しくなりますね、気さくに話し合って…そう、仲良くなりたいのです!
個人と個人が、人と人とが理解しあう…それがすべての基本で、音楽はその時に大きな力になると思います。

(おわり) 2024年8月収録

インタビュー後の韓国公演
台北公演も大成功でした!
残歌のメンバーと。
左から伊藤志宏(ピアノ)、Eri、ファルコン(ギター)、岩田卓也(尺八)

Eri Liao(エリ・リャオ)

台湾・台北市出身。東京大学大学院在学中、ジャズに関心を持ちニューヨークへ。文芸創作とジャズを学ぶ。祖母の死をきっかけに本格的に音楽創作に取り組み、現地ミュージシャンとセッションを重ねる中、Billy Harper (ts) ボーカルプロジェクトメンバーに抜擢され、シンガーとして活動開始。ジャズ、台湾原住民音楽など、古今東西、言語やジャンルを超えて揺さぶる“うた”の世界を歌い続けている。

最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。私のnoteはすべて無料です。サポートも嬉しいですが、「スキ」がとても励みになります(^▽^)/